一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

意志の問題

保昌正夫(1925 - 2002)

 保昌正夫先生の謦咳には一度だけ接したことがある。たった一度だが、記憶に残っている。

 立原正秋さんを初代編集長として復刊された第七次『早稲田文学』が、第二代編集長の有馬頼義さんにバトンタッチされてほどなくの頃だった。有馬編集長が若い者や読者の意見も聴いてみたいとおっしゃって、資格フリーの会合の隅っこに出席したことがあった。さて場所がどこだったか、喫茶店の二階のようなところで、四角い部屋ではなく、雲形定規のように不定形で、中ほどに階段二三段の高低差もあるような会場だった。
 『早稲田文学』編集室で下働きアルバイトしていた立松和平とすでに知り合っていたので、声を掛けてくれたのだったと思う。岳真也さんと冨田均さんがいたのを憶えている。冨田さんとはすでになん回も面談していた。中上健次さんはいなかったろう。いれば目立つ男だ。福島泰樹さんや荒川洋治さんが、さてどうだったか、そのときはまだ顔をはっきり承知してはいなかったので、記憶がない。
 その他、私のように同世代者にさえ名も顔も知られてないようなのが、うじゃうじゃいた。誰も彼も、二十代前半だ。

 新人発掘が話題となり、齢を食っていても、新しい作品で出てくれば新人だと、有馬編集長が力強く宣言された。立原前編集長が、若い書き手の登場による新文学とのポイントを強調されていたので、あきらかに路線変更つまり門戸拡張を意味し、記憶に残った。
 また投稿だけでなく、若い者に編集権を委ねる試みを実現したいともおっしゃった。へぇそんなことができるものかと内心思ったが、数か月後には、立松和平さんを中心とするバイトメンバーによる「学生編集号」なる特集号が出た。

 新しい文学と売れる文学という話題にもなった。岳真也さんが四方八方に眼配りの効いた自説をゆっくりとかつ長ながと披露した。照れ臭げに話しちゃいるが、切れる男だなこれは、との印象だった。それに異論を唱えたわけではないものの、冨田均さんがもちまえの一語いちご噛み締める口調で、佳い文学が新しいのであって日本語の達成を度外視した新旧論などありえないと、諄々と説いた。彼自身が主宰する同人雑誌『守護神』で、冨田さんが古風な文体完成を目指して、どれほどの精進をしているか、私は作品をいくつか読んでいたので、主旨は理解できたし、おおむね同感だった。

 「文学精神のありようの問題ではないでしょうか」
 シマッタ、言葉が大袈裟に過ぎた。噺の成行きが、上手ければ面白く下手なら退屈だという方向に流れて行きそうだったので、ちょいとクサビを打っておきたくなって、ついつい不用意に声を出してしまった。
 そりゃマァそうだけれども、との反応が四分の一。あとは突如として飛出した死語のごとき古臭い用語に、呆気にとられた顔つきだった。

 それまで黙って、若造どもの応酬に耳を傾けておられた白髪の年配者が、やおら身を乗り出すようになさって、
 「そりゃ君の云うとおり、まさしく文学精神の問題であって、ただし……」
 というふうに論を進められた。
 誰だろうか。有馬編集長よりも貫禄ありそうなかただが。ところがその編集長が、
 「みいんな保昌さんが云ってくれたけど……」
 と、論議の行方をまとめられた。えっ、あれが保昌正夫先生かと、私は初めて知ったのだった。
 会がハネてから立松和平に、オレ、冷や汗かいたよと白状したら、なぁんだ知らなかったのかと嗤われた。

 

保昌正夫瀧井孝作抄』(エディトリアルデザイン研究所、1999)

 今からは想像しづらいが、横光利一の評価が曖昧で、批評家や研究者からもめったに取沙汰されぬ時代が長く続いていた。川端康成は日本を代表する現職の大作家。双璧の横光は新感覚派の闘将として名を遺すだけの文学史上の人物、といった扱いだった。
 その時代にも保昌先生ともう一人の研究者(私はまったくご縁なく謦咳に接する機会もなかったのでここではお名を伏せるが)とが粘り強く研究を継続し、やがてそれらに耳を傾ける後進や、両先生の教え子さんがたが、ぽつりぽつりと横光利一を取上げるようになっていった。
 今では日本近代文学会の全国大会でも催されれば、毎年かならず一人や二人は、横光利一についての研究報告をなさる若き学究がおられるのではないだろうか。うたた今昔の感とはこのことだ。

 まだ河出書房刊『定本横光利一全集』など影も形もないころで、私は改造社版の旧い『横光利一全集』全巻揃いを古本屋で買って得意の学生だった。ちょいと思い切れば学生でも買える値段だったことでも、当時の横光の扱われかたが偲ばれる。
 そして黒い本(同時代の作家・批評家が横光を語った文章)は別として、白い本(後代の研究者が論考した文章)としては、保昌先生の業績がほぼ唯一といっても過言ではない状況だった。私にとっては横光の保昌か、保昌の横光かと思える存在だった。

 保昌先生はもとより早稲田系のかただが、当時は武蔵野美術大学の教授であられて、私が文学部に在籍した七年間には、ご講義されなかったと思う。あるいは他学部ではご出講あったのかもしれない。とにかくお眼にかかったのは、『早稲田文学』のこの宵一回である。
 先生のお仕事は、危険を伴う犀利な刃物で文学作品を切り刻んで見せるような芸風ではない。温厚な人間理解を粘り強く積みあげてゆく取組みである。鬼の首を取って曝して見せるがごとき論考ではない。したがって作品論よりも、年譜作成や資料改めなどの分野において、余人には及びがたいお力が発揮されてある。まさに我ら後進にとっての、灯台とも澪標ともなるありがたいお仕事が、今も価値を喪わずに残っている。
 その保昌正夫先生が、横光なら当然だし、牧野信一にも深入りしておられたが、瀧井孝作について書かれたものがこれほどあるとは、存じあげなかった。

 間もなくやって来る新しき年を、私は処分元年と位置づけている。書籍、書類、雑貨、家具、整理のつくものならなんでも処分して、少しでも身軽になりたい。さっぱりしたいのである。新たに本を買うなどということは、自分に対する犯罪行為に等しい。
 昨日も雑司ヶ谷古書往来座さんへは、買い物にではなく、挨拶に赴いたのである。私事にても、古本屋研究会なる学生サークルのご指導にても、過ぐる一年多大なるお世話をおかけしたことへの、お礼に伺ったのである。断じて、買物のつもりはなかったのである。
 だというのに、まだ分野別の棚へと仕分ける前の、「新入荷」の棚に、これが挿されてあったのである。それも客に蹴飛ばされたり埃を被ったりしかねぬ下のほうの段だ。しゃがんだり身を折ったり、首を横にしなければ背文字すら読取れぬような下段にである。
 もはやこれは、私の意志薄弱による問題ではなく、事故である。天命と申さぬだけ、まだましとお考えいただきたい。