一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

名残寝

 

 目覚し時計を解除してからが、安眠タイムだ。矛盾ではないだろうか。

 不規則生活を続けていると、起床したところで、昨夜はさて何時に就寝したんだったか、いやそれは一昨日のことだったんだか、一瞬混乱をきたすことがしばしばだ。
 自衛策として、就寝時の六時間後に目覚し時計をセットすることにしている。翌日用事がない、しかも前日は夜鍋作業でほとんど徹夜だったなどという日は、今夜こそ八時間だろうが十時間だろうがたっぷり眠るべきだが、さような場合でも六時間後にセットする。
 アナログ文字盤時計では、短針の百八十度真正面に目覚し針を設定すればよろしいから、間違いがない。起床時の寝ぼけ頭に、さて昨夜は何時に就寝したんだったかと、思い煩う心配もない。
 池袋ドンキで購った最安値の目覚し時計が、わが暮しにあって今のところ唯一のタイムキーパーだ。

 翌日に響くからもう寝たらどうだと咎めてくれる者もなければ、そろそろ起きねば間に合わぬぞと告げてくれる者もない。つまり家族というものがない。憐れまれたことも、羨ましがられたこともあったが、自分としてはいずれも同意しがたかった。亡父母以外に家族というものがあったことがないのだから、他の場合と比較のしようがない。
 人さまと関わりのある、対外的な仕事に就いているうちは、それが目安の楔となってくれたが、退いた今は、つまりは万事自分勝手である。

 そんな暮しでも、寝過ごすとか目覚しに気付かなかったといったことはない。それどころか目覚しが時を告げるまで正体なく寝込んだという経験がほとんどない。熟睡だの安眠だのに憧れさえ抱いている。つまり多くの老人がぼやくとおりの、眠りが浅くなる老化現象だ。
 老人に水切れは禁物。少量づつ小まめな摂水をと、健康指導を受けている。忠実に実践している。麦茶、紅茶、珈琲、牛乳、カルピス、なんらかの飲料を手近に切らしたことはないし。二種三種を冷蔵庫に常備して、作業の一区切りには口にする。
 利尿作用を促進するから摂水には逆効果とされる、ビール、酒類の摂取は極端に少なくなった。以前が多すぎたのか。もう一生涯ぶん以上飲んだということか。よほど気分が欲しない限り、飲む気にもならない。
 その代り、就寝まぎわでも頓着なく、珈琲でもなんでも飲む。すると……。

 就寝中に一時間半か二時間に一度、トイレに起きる。ひどい時には一時間少々しか経ってない。目覚しが鳴るまでに三回は起きる。世に云う老人性夜間頻尿というやつだ。
 膀胱という臓器は容量上限五百 cc. と聴いたことがある。むろん一杯となっては躰に障るし、第一そこまで耐えられるもんじゃないという。ふつう百五十 cc. 前後で尿意を催すそうだ。
 若いうちは臓器の筋肉組織も柔軟で、就寝中だったり気を逸らせて尿意を我慢したりして、二百も二百五十もまとめて排尿することができる。だが筋肉組織の老化現象で、我慢が効かなくなって、ちょいと溜っただけで激しい尿意に襲われたり、もっと進行すると失禁粗相ということにもなりかねぬそうだ。
 つまり夜間頻尿は、やがて失禁老人となりゆく道のりの一里塚ってことだろうか。景気のよろしい噺ではない。

 ところが、である。六時間経って目覚しが鳴る。設定解除する。起床してもよろしいが、まだ眠り足りない。さいわい今日は、〆切仕事も必須の家事もない。もう一時間ほど眠ってみるかと、トイレを済ませてからまた毛布にくるまる。
 そんな場合に限って安眠熟睡時間が訪れて、前日寝不足だったりしようものなら、三時間も四時間も熟睡してしまう。途中尿意に起こされることもなくだ。眼醒めてから、われながら呆れる。

 いかなる心理あるいは生理メカニズムだろうか。目覚し時計との応答やりとりが習慣化するうちに、いつしか新たなストレスとなっていたのだろうか。自分の耄碌に楔を打つための道具として、便利に使いこなした気になっているうちに、いつしか当方が目覚し時計から脅迫を受けて、ビクついている関係となっていたのだろうか。
 とにかく解除後の、おまけの寝過ごし数時間はグッスリ熟睡して、眼醒めの気分はじつに爽快である。


 生理現象の問題でもあろう。安定均一な日常を過ごすべく自分を縛ろうとするところに生じる、心理的圧迫の問題でもあろう。
 加えて、数字の魔力ということが考えられる。睡眠だの休息だのは、干天の慈雨とも申すべき値千金の質もあれば、空疎な数字合せだけの量もある。量より質に決っているのに、解っているはずなのに、数字に一喜一憂する自分がある。
 現に、眠気醒ましにパソコンを開けて、ブログのカウント数がゾロ目がちだと、今日一日きっと好いことがあるにちがいないと、ニンマリせずにはいられない。