学年末の試験前か。学生はまばらだ。大学はまだ、冬枯れの向うだ。
原稿の〆切日だ。編集部は文芸学科内にある。持参する。メールに添付するかたちで送稿済みだが、プリントアウトした紙原稿も渡す。無駄のようだが、私のやりかたである。預っていた資料も返却しなければならない。
原稿は選考を了えての感想すなわち選評だから、読ませてもらった候補作品原稿もある。けっして外部に漏らせないものだ。編集部員に直接手渡すのが安心だ。
大学はまだ冬の気配だった。体温チェック機の前に立ってから、守衛所へ顔を出す。顔見知りばかりだ。来訪者台帳にサインして、訪問相手や用件や入構時刻を記入する。すでに部外者だから、紐付きの入構許可カードを手渡され、首から掛ける。で、学科の事務室を訪ねる。
質問だか手続きだかの学生が、受付窓口で助手君の一人を相手に用を足している。行列して待つ。別の助手君が私に気づいてくれて、どうぞこちらからと、講師応接室の扉を示してくれる。いわば無審査入場口だ。ありがたくはあるが、そうはゆかない。今では外来者だ。特権を辞して、かたくなに行列の尻尾についた。
雑誌編集とは、要するに雑用の大群である。学科の助手君たちが手分けして担当してくれている。将来の文筆家か編集者か教員だろうから、実地インターンのごときか。
ご苦労には、ほぼ想像がつく。なん足かの草鞋を履きながらも二十三年間、出版界の隅っこに身を置いた。同時に「売れない」文筆業者だった。これらの経験から、〆切は固い男だ。原稿も読みやすい(はずだ)。出来の水準が高いかどうかは別として。
雑魚として業界を泳ぎ渡るうちに、身に着いた手管である。とんでもない駄作を書いてしまう度胸がなければ、佳いものなど書けはしない。これも身に着いた覚悟である。
おのが優秀さと馬力とで突破できる若者は、参考にしなくてよい。が、ほとんどの若者は、憶えておいたほうが身のためだ。
用件はあっけなく済んだ。すぐにおいとまする。学科事務の奥の講師休憩席へでも通って、お茶の一杯もよばれて、近況噺や世間噺でもすれば、助手君らや事務員さんがたとより一層のよしみを深められるかもしれぬが、じつはこの時期、大学というところは忙しい。愛想なしのようでも、長居は無用だ。
食堂やら、美術学科の作品展示室やら、歩き回ってみたい場所がキャンパス内にないでもないが、やめにして、さっさと学外へ出ることにする。
守衛所では、面々としばらく立ちばなしする。登校学生がまばらな時期だし、神経を使う入試関係の多忙が始まる前だから、ここはのどかだ。ただし寒い。
喋りながらあたりを視まわすと、植込みの灌木類はすでに、圧倒的な勢いで芽を膨らませている。そういえば拙宅の桜も、枝にへばり付いた粒つぶはすでに丸みを帯び、心なしか色も変化してきたんだった。植物はつねに、人間より敏感だ。
植物だけではない。学生の姿がほとんどない構内を悦び勇んで歩き回るのは、というより得意のダンスを披露しながら往き来しているのは、数羽のセキレイたちだ。鳥のなかでは比較的に、人間の姿を怖れない。こちらから歩み寄ると数メートル間合いで遠ざかり、こちらが引下がると戻って来る。彼らにとって価値のある種子か花粉か小虫か、人間の眼に見えぬ何かがあたりに散らばっているのだろうか。彼らにとっても、もはや冬は明けているにちがいない。
さしあたりセキレイとは利害対立しそうもない。私は私で、朝食抜きで出掛けてきている。大学を訪ねた帰りには立寄ることにしている珈琲館へ移動することに。大好物のシナモントーストで、本日一杯目の珈琲を飲むつもりだ。