一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

老いては

『対抗言論 3』(法政大学出版局、2023)

 「反ヘイトのための交差路」と副題された意欲的な論集を送っていただいた。446ページの大冊だ。
 四本の特集に分類され、論説や研究報告や対談企画が並ぶ。「1、文学/批評に何ができるか」「2、暴力・宗教・革命をめぐって」「3、男性支配の重力に抗う」「4、フェミニズムと社会批評のいま」。なるほど、同人雑誌四冊分と考えれば、このヴォリュームももっともか。刊行のしかたが、私の知る時代とは変ってきているのだな。

 いずれも私ごときが感想を抱けるような特集ではない。そこは考えても無駄と知ってる分野もある。かつて自分流に考えてはみたが、力不足で埒が明かなかった分野もある。私は非難告発されるがわの人間だと思える分野もある。今さら私などにどうせよというのかという分野もある。
 いずれにせよ、ちっぽけに囲いこんだ自分の暮しの外にまで、自分の言葉を届けようとの気概など、今の私にはない。面倒くさいし、うるさい。私には私で、忙しい課題がけっこうある。

 だが興味なくもない人が登場していたり、論じられていたりもするので、かなりの論述については、これから拝読させていただくことにはなろう。
 拝見のまえに、自分に対してクサビを打っておかねばならぬことがある。言語(とうぜん言論も)自体が、もともと差別的動力を内包している。概念・定義・意味・証明・確信、いずれも差別意図(もしくは野心)なしには成立しえない。伝達の利便や思索の深化を求めて、人は言語を錬磨してきた。それは差別意識の発生と表裏一体の過程だった。
 本書執筆陣がたが、その意味での「差別」を指しているのではないことは、百も承知だ。ただ、人は差別せずには生きてゆけない動物だという根本道理をわきまえたうえで、各論を拝見しようと、自分に申しきかせるというまでだ。
 混同も極論も、論潮を混乱させるもと。己を棚に上げての論述は、百篇積み上げてみても虚しい結果に了る。

 本書には、若い友人の藤原侑貴さんが、百枚を超える力作小説を寄稿している。彼は創作一本、およそ論述など不似合いな人ではあるが、編集委員のお一人でもあるという。私にまでご恵送くださったのは藤原さんだ。
 作品はもちまえのゆったりした速度で描かれてある。世間の速度と物ものしさに同調しかねている主人公の噺だ。都市再開発にまつわる市民運動のかたちで、社会問題が身に迫ってくる。酒場などで生じた人間関係から、運動に巻き込まれざるをえない。
 しかし思い出多い母親が近年めっきり弱り、脳梗塞や初期認知症の兆候を発している。正直なところ彼には、都市再開発よりも、母の容態や閉園された市立動物園の動物たちの行く末が気がかりだ。いっそのこと、身に合うゆったりした時間を感じられる、これまでに旅慣れた東南アジアへの旅に、また出てしまいたい。だがコロナ禍だし、母から眼を離すわけにもゆかない。古風にして、どなたにもお解りいただける小説だ。

 その藤原さんが、昨年押詰ってから来宅。私とディレクター氏とが差向いでの、一年最後のユーチューブ収録日だった。藤原さんとディレクター氏とは、かつて一対のお神酒徳利のようにいつも連立って、学生時代を過ごした間柄だ。それぞれの道を行くようになって、面談の機会もなかろうから、私がお呼びした。

 「先生、安岡章太郎って、俺のこと描いてます。ほんとうに駄目な男を描いてるんですよ。知ってましたか?」
 「先生、花田清輝って、スゴクないですか? 僕この人を徹底的に読もうかなぁ」
 瞳をキラキラさせて、と『二十四の瞳』だったら云うところだろうが、残念ながらその時分の彼らの眼の色を記憶していない。ただ、やれやれと思った記憶がある。
 それから十余年、二人ともども私を気遣い、助けてくださっているのが実状だ。まことにもって、老いては……である。
 ご両人とも、どうかお気をつけなさい。背後から、松川駅近くの事件現場に立つ広津和郎が視おろしてますよ。つまり、日本近代文学ってやつがさ。なかなかどうして、部厚くって、手ごわいですぜ。