コインランドリーのお向うが庭木の多いお宅で、洗濯機や乾燥機の仕上りを待つあいだ、しばし眼を愉しませていただくことが多い。つまり深夜の洗濯日には、これがかなわぬという意味だが。
和風庭園のように配置按配されてはいない。むしろ密集するかのように、樹木が行列している。私のような洗濯待ちの暇人による好奇の眼から、邸内を防御しているかのようだ。垣根の丈高いものといったおもむきである。
金木犀、紅葉、沙羅、椿、私には視分けられぬ樹がひと株。どうやら観どころの季節を限定することなく、あらゆる季節にいずれかが観どころを発揮するような選抜となっているらしい。ただ今は椿が主役である。
高いところの枝先に、咲き盛りを過ぎて無残ににしおれている大輪がいくつも残っている。丈高い大型ワゴン付きトラックが、二台続けざまに通った。引越し業者さんだ。庭木たちの枝先を擦るように通過していった。
往来には、しおれた大輪が二輪、落ちている。トラックがわずかに掠め通っただけなのに。拾って、ランドリー内のゴミ箱に放り込む。洗剤や乾燥剤の小分け袋だの、なにかの容器だのレジ袋だの、紙類樹脂類ばかりの箱に、異色のゴミだ。違反にはなるまい、おそらくは。
低いところには、まだこれから咲こうとするツボミも、いく輪か見える。早咲きと後続を、どうやって調整しているもんだか、賢いもんだ。
お玄関前には、地を這う草類がアスファルト道にまで発展しかけた状態で、冬枯れしている。路面の凹凸にたまるかすかな塵や埃や砂までをも土と視立てて、ここまで乗り出してきたものだろうか。勇敢なもんだ。
先兵はここで枯れ果てる運命にある。そしてみずから土の代用となり、次世代進出の土壌となる覚悟だろう。視あげたもんだ。
だが彼らの果敢な戦略は残念ながら、実現されるまい。もう少し寒が緩み、陽が長くなってきたころ、やおら家主さんが腰を挙げてきて、彼らを根こそぎにして、なにごともなかったかのような、もとのアスファルト面にしてしまうことだろう。
それでも彼らはめげることなく、次なる作戦行動を開始することだろう。果して一年後のブログに、同様の写真を掲げることができるか、ちょいと記憶しておこうか。
洗濯・乾燥を了えて帰宅すれば拙宅では、先日来の寒風と冷たい雨で、君子蘭の葉がすっかりやられていた。めったなことではこんな姿を見せる奴ではない。よほどの寒波だったのだろう。
年末近くに、枯葉を埋めるためと、ドクダミの地下茎を今のうちに少しでも断っておくために、彼のすぐ足元にまでスコップを入れたことで、地中の環境に変化をきたしたことも与っているのだろうか。
当方には当方の事情がある。ドクダミとタンポポ、これら二種だけは、咲き始めてからでは手遅れだ。地中は彼らの天下になってしまっている。
対策としては、遠慮会釈なく横へ広がってゆくドクダミの地下茎は、今から心がけてあちこちを遮断しておかねばならない。また鎌や園芸用の手シャベル程度では対応に窮するタンポポの根は、まだ嫩芽状態にある今のうちに、地上部を一度伐り放しておかねばならない。
例年おろそかになりがちで、手遅れとなってあたふたする作業に、今年は少々律義に取組んだために、となりの君子蘭に環境変化が及んでしまったのかもしれない。
なるほど、般若心経の註釈本にあった因果というのは、これか。いや、それほど大仰は問題ではない。