『季刊文科』89号、昨年秋号の特集「旅×文学」のメイン対談。神社だの離島だの温泉だのを巡って、旅から旅を続けてきた老文人お二人が、これまでに行った先の思い出を語り合い、文学とのかかわりを語り合う。つまり神話や歴史を語り合っている。
とんでもなく暢気といえば暢気、だが読みようによっては深刻にして喫緊の話題満載である。ともあれ年季がものを云う、老文人ならではの対談だ。
あの湯は好かった、そこへは俺も行った、あの人に逢った、面白かった、基本はさように気楽な噺なのだが、連想や脱線や例えばなしの端ばしに、お二人の文学的来歴がちょいちょい顔を出す。そこは気楽では済まない。
たとえば佐藤さんによれば、明治期の廃仏毀釈運動では「薩摩にはお寺が九百以上あったんですが、それを全部変えて神社にしてしまった。長州は六百以上の寺社があったけど、そのうちの六割ぐらいを神社に変えている」そうだ。
川村さんによれば、「寺山修司は津軽出身で、下北じゃないし、それこそ恐山じゃないのに、それを売り物にしている。逆に川島雄三はずぶずぶの下北なのに全然それを売り物にしない」そうだ。
いずれも資料を渉猟すれば、どこかから出てくる材料ではあろうが、ご両所から指摘されれば、そうかなるほどと思う。
川村さんの指摘。「だいたい日本が島国であるということがはっきり分かったのは江戸時代で、それこそ伊能忠敬が、樺太と北海道がつながっていないことが分かって初めて列島、群島であることが分かったわけです。」
新たな認識が定着すると、それ以前に生きた人びとの常識を想像しづらくなってしまう例のひとつだ。
私の父が初めて郷里柏崎から上京したときは、直江津まわりに長野、上田、軽井沢を経由して、つまり信越本線で半日以上かけて上野へ着いた。上野から終点新潟までは急行列車でも十一時間以上かかったという。ましてや急行に乗る身分でもなかった百姓の倅は、一日仕事を覚悟で上京したのだった。
清水トンネルが開通し、上越線なる新路線が開業されてからは、新潟や長岡から長野・上田を経由して上京することなど、考えられなくなった。今や上越新幹線の時代だ。二食分の握り飯を風呂敷に包んで汽車に乗った貧乏学生の気持など、想像しづらかろう。
佐藤 原発に関しては薩長に負けたところにあると思っています。親徳川の柏崎、福島、水戸、大間、それから北海道、松江もそうだし福井もそう……
川村 そもそも人が住んでいないところに作るのが原則だから、産業もなければ人口もないし寂れたところで、それはおのずと薩長ではない、勤皇派ではない佐幕派のほうに片寄る。
(ワタクシ、その柏崎ですけど、なにか?)
対談場所はアルカディア市ヶ谷と記事にある。それってどこだ、と一瞬思ったが、窓からの景色をよく観れば、なんでえ、私学会館のことか。
それにしても、このご両所が離れて、アクリル板に囲まれて差向いなんざぁ、違和感あるじゃねえか。あいだに徳利も猪口も見えねえのは、もっと変だ。と三人目の老人は思うのである。