古京は荒れて新都はいまだならず、ということか。
筋向うの音澤さんのお宅を覆い隠すようにして枝葉を伸ばしていたネズミモチの大樹が、あたり一帯を縦横する鳥たちにとってハブ空港的な役割を果していたことは、前に書いた。はたからの眼を遮断するほどに密集する枝葉の内側が、雀をはじめ小鳥たちの会議場ともなっていた。季節には花も実もつけるネズミモチは、小鳥たちにとって、いわば豪華食事つき宴会場だった。
が、音澤さんだとて拙宅同様に、ゆくゆくは敷地の一部分を東京都から召し上げられる運命を抱えておられる。道路は十二メートル拡幅される予定で、向うに四メートル、こちらに八メートル、持ってゆかれる設計になっている。拙宅のごとく、建屋を解体せねばならぬほどの重症とはなるまいけれども、軒をかすめ取られる程度のことは避けられず、相応の改造手入れは避けられまい。
いつかは決断せねばならぬその日へ向けて、第一歩として樹木の整理に着手なさったものだろうか。
同じ場所に立って、失礼ながら剪定跡を撮影させていただいた。じつに久しぶりに、階下もお二階も窓が往来に面してしまう。たしかにこういうお家だったと、記憶が蘇る想いだ。同時に、自分が人さまの敷地内を窺う盗撮者のようにも思え、あたりを憚る気も湧く。通りかかった人は、じっさいさように私を訝しんだことだろう。
ところで、ネズミモチに思い切った手入れが施されたのは、昨年も押詰ったころだった。植物の状態・形態が変化すると、すぐさま新環境の活用に着手するのは、動物たちである。
草を刈ったり、園芸植物を植え替えたりすると、昆虫や蜘蛛たち、ダンゴムシやミミズたちは、すぐさま新環境の活用に動きだす。樹木の剪定についても同様で、まず鳥たちによる扱いが変更される。
裸形の幹が突っ立ったように残る音澤さん宅のネズミモチを、鳥たちは、さていかに活用するものかと、このひと月それとなく注目していた。が、当方の不規則生活が禍してか、時間帯が合わぬとみえて、まだ鳥たちの姿を視ない。
かつて梢を見晴台として、つまり四方へ翔んでゆくためのハブ空港として活用していたヒヨドリやセキレイは、当然ながらこんな背丈の低い幹に用はない。
雀をはじめとする小鳥たちは、周囲から丸見えで風よけにもならず、花や実の可能性もない幹に用はない。
裸木の先端に鴉でもとまるかと思いきや、背丈の低過ぎる樹には利用価値がないようだ。周囲には見晴しの利くベランダの手すりやテレビアンテナが、いくらでもある。
鳩の群はもともと、すぐ近くの電線に列をなして止まったまま、樹木には接触してこなかった。大食いの鳩にとって関心あるのは、樹木が餌を道路に降らせるときだけである。
ネズミモチにしてみれば、伐り口に近い細胞から脇芽を吹き、さらに枝分れさせて、先端に魚卵みたいな房状の花を着け、やがて実を結ぶまでは、鳥たちからも昆虫たちからも見向きもされまい。さてその力が、この樹に残っているか。命衰えて、シロアリたちの産卵場となってゆく未来だって、想定できぬではない。だいいち東京都が設定した時間にも限りがある。
もとはどこか離れた場所で、鳥に食べられた実がここまで運ばれ、鳥の脱糞によりこの地で生きてきたのである。