一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

道のり


 熊本から、少年は東京へ発った。

 通っていた洋学校が閉鎖された。洋学校では、新聞をよく読んだ。地元紙のほか東京日日新聞も届いていて、熱心に眼を通していた。新聞記者になりたいとの志を抱いた。
 東京へ出よう。父も反対しないどころか、奨めてくれた。叔父と懇意の司法省官吏が新婚旅行で帰郷していて、近ぢか東京へ帰るという。同行させてもらおう。塾の内弟子暮しがあったとはいえ、親元を遠く離れるのは初めてだ。が、東京には母の姉妹の嫁ぎ先もある。

 八月。拭いても拭いても汗が止らぬ日だった。熊本から二里ほどの百貫という港から、ちっぽけな蒸気船に乗った。手漕ぎの渡し船や帆掛けの荷舟には乗ったことがあったが、蒸気船は生れて初めてだった。猛烈に暑く、臭かった。
 長崎までわずか五十里足らずだが、揺れに揺れた。とうてい立ってなどいられない。出がけに歓送会だといって、ご馳走を腹一杯いただいていたから堪らない。我慢できるものではない。
 木綿絣の着物の両襟を開いて、ほとんどを吐き戻した。同行ご夫妻の手前、素知らぬ顔で通した。我ながら我慢強い性格で好かったと思った。
 長崎港で降りる頃には、干し飯のようなものが腹一面に、バリバリと貼りついていた。歩くたびに、ポロポロとこぼれ落ちた。

 長崎からは飛脚船(定期の郵便線)に乗換えて神戸港に向った。小一日、神戸の街を見物した。同じ飛脚船が今度は横浜へ向うというので、乗った。熊本を発ってから横浜港まで、かれこれ一週間あまり、十日近い旅程だった。当時これがもっとも合理的な、上京の道のりだった。

 明治九年(1876)八月、十四歳の猪一郎少年(のち徳富蘇峰)は、かようにして東京へやって来た。