一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

風浪

木下順二作品集 Ⅵ』(未来社、1962)

 作家は生涯かけて処女作へ向って完成してゆく、という云われかたをすることがある。木下順二の場合、まさに至当だ。

 昭和十四年(1939)十一月三十日、午後二時、木下順二は処女作『風浪』の第一稿を書き了えた。翌日は入営の日だった。なんとしてもこの世に生きた証を、およばずながらも爪痕のひとつを残しおきたいと、必死だったことだろう。
 戦後書き加えられ、場面を削除され、いく度も手を入れられた完成稿として、今日我われの前に、練り上げられた『風浪』がある。
 舞台は明治八年夏から十年春までの熊本。新政府唱道による強引な文明開化が押進められる環境激変のなか、新たな生きかたを求めて旧藩士の子弟たちの内面は四分五裂。ほんのわずかな考えの相違(美意識や教養)、出自や禄高の相違(階級意識)、年齢、性別、それぞれに無残な亀裂を避けられなかった青年たちの群像劇である。

 佐山健次は「学校党」の家柄に生れ育った。藩校時習館朱子学の訓詁中心の、重箱の隅を突つく旧弊な教育を受けた。いかなる場合にも殿様をお護りせねばと教わった。
 ところがご一新で藩籍奉還し、土地はすべて朝廷にお返ししたという。上御一人のもとで四民平等だという。殿様は東京へ行ったきりになってしまった。重臣がた上役がたは巧みに立ち回り、多額の奉還金を元手に次なる生きかたへと賢く転身してゆく。下級武士にとって、今後歩むべき道はどこにあるかと、真剣に考える同輩が見当らない。

 幼馴染が「敬神党」へ誘ってくれた。時勢に憤る同世代が、口角泡を飛ばしていた。その姿と勢いとに真剣味を覚えた。恥を忍んで「敬神党」へ身を投じた。親や親戚を裏切った。仲間たちからは変節漢と口汚く罵られ、絶交された。
 たしかに憤ってはいたが、なにかというと「敬神党」は大声で詩を吟じ、神がみに祈祷し、おみくじを引いた。意見の異なる者に対して、すぐに刀を抜こうとした。頭に血の昇りやすい凝り固まった攘夷党だった。心情には共感できても、佐山健次は気質的に同調しかねた。

 西洋かぶれと侮蔑される「実学党」の知恵者邸にも、噺を聴きに赴いた。六年前に暗殺された横井小楠を祖とする学派だ。和魂洋才の学風である。仲間には内緒だ。知られれば何をされるか、判ったものではない。
 主人もその周囲に集る同世代青年たちも、穏やかでよく話し合えた。座敷の床の間には、小楠の軸が掛っている。「堯舜孔子の道を明らかにし 西洋器械の術を尽す なんぞ富国にとどまらん なんぞ強兵にとどまらん 大義を四海に布かんのみ」
 こちらで語り合おうと促されても、書の前から動けなかった。佐山健次は蒙を啓かれた。と同時に、新たな疑問に襲いかかられたのだった。

 和魂洋才、よしっ。富国が究極の理想ではない、よしっ。強兵も究極の理想ではない、これもよしっ。で、大義を四海にしく、とはいかなることか?
 西洋人にも孔子孟子を教えようというのか。世界の国ぐにをも、堯舜の徳治政治をもって統治しようというのか。知恵者と名高い当主に向って真摯に教えを乞うたが、明瞭な応えは得られなかった。
 地方行政の主流にあって県庁の要職を占めていた「実学党」は、洋学校を設置してアメリカ人教師を雇っていた。西洋学問と西洋技術のみを教え、けっしてキリスト教を布教してはならぬとの契約だった。
 佐山健次は恥を忍んで「俺はもう一度、変節漢になる」と決断し、西洋人に頭を下げて教えを乞うと宣言する。むろん「敬神党」からはつけ狙われる。

 洋学校での学びの日々は、まさに瞠目また瞠目だった。優秀な同世代が集っていた。おおいに向学心を満足されせられた。ただ究極の一点が佐山健次には理解しかねた。
 人はもともと罪びと。だから限りなく弱い者として神の前に立つ。身を投げる。だからこそ神とともに、途方もなく強いものとして在れる。これに合点がゆかなかった。
 血気盛んな洋学校生たちは、アメリカ人教師からそそのかされたわけでもなく、自主的に聖書を学び感化され、花岡山のいただきで奉教趣意書を読み上げ改宗宣言した。家族たちからはむろん激怒された。熊本バンドの結成だ。佐山健次はどうしても、ついてゆけなかった。
 アメリカ人教師夫妻は契約違反だとして「実学党」から責任追及され、辞職を余儀なくされた。熊本バンドのおおかたは、京都へと移っていった。同志社への移籍だ。またも佐山健次は、取残された。

 中央政府から派遣された、よそ者の県令によって、行政は急改革されてゆく。県庁からも教育からも「実学党」は一掃されてしまった。「敬神党」はとにかく現状破壊だといって武装闘争を仕掛ける。世に云う神風連の乱だ。佐賀、秋月、萩などと並んで、新政府の藩閥強権政治に不満を爆発させた、下級武士の反乱の一例とされている。
 心情には共感しつつも暴挙を止めようとした佐山健次だったが、不運なはずみでかつての親友を斬り殺してしまう。またも取残されてしまった。だがこの事件が、彼の退路を断った。

 究極の理想が見えぬうちは、行動に移せぬ青年だった。が、もはや彼は、考えることをいったん停止し、迷うことをやめた。隣国薩摩から西郷隆盛という神輿を担いで政府批判軍が挙兵されると、友人が止めるのも聴かずに、馳せ参じていった。西南戦争だ。
 はなから仕舞まで、もっとも深く悩み、さまよい、問い訊ねた青年が、結局はもっとも勝ち目のない選択をすることになった。

 切実にかつ主体的に関わったものほど、痛切に否定されるかたちで、歴史は進行してゆく。有名な木下順二テーゼである。いずれか一作を代表作と選ぶことなど困難な、木下順二作品系譜ではあるが、すべてはこの処女作へと矢印が向いていると読める。
 そしてもうひとつ、なるほどこういう歴史的背景があって、熊本バンドは同志社へ出て来たのだったか。