一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

これも人魂


 佐藤厚志『荒地の家族』、今期の芥川賞受賞作です。

 四十歳の坂井祐治は一人親方の庭師です。個人営業の植木屋さんですね。阿武隈川河口の町に暮しています。あの大震災および津波災害では、間一髪で命拾いの目に遭いました。苛酷な労働環境だった造園会社で忍耐してきた、下積み職人の暮しに視切りをつけ、一人親方の生活に移行してほどなくの災厄でした。無理して買い揃えた道具も車も、膨張してきた海にすべて呑まれてしまいました。
 これからどうして生きてゆこうか、放心や悩みや迷いを忘れようとするかのように、がむしゃらに働きました。瓦礫片づけでも倉庫作業でも、なんでもやりました。庭師の仕事なんて、ありえようはずがなかったのです。

 仕事に我を忘れて気づかぬうちに、妻の晴海はしだいに病んでいました。ふたたび軽トラックや道具類を買い揃えて、ようやく本業の庭師へ復活できたころ、晴海は病院の精神科へ通院しなければならぬ躰になっており、治療の甲斐なく他界しました。一人息子啓太はまだ三歳でした。
 六年後に知加子と再婚しました。啓太からは「おばさん」と称ばれました。トラウマと云うのでしょうか、祐治は不安や幻覚や、晴海への責任や後悔にさいなまれてやみません。仕事漬けの日々が続きます。仕事に逃げていたのかもしれません。
 知加子にとっても結婚生活は甚だしく期待はずれで、気に病むことも絶えず、妊娠した胎児は誕生まで生きることもできず、流産しました。心身の回復には至らず、知加子はある日突然、食器類をことごとく金槌で叩き割って家を出て行きました。以後は離婚書類が送付されてきただけで、連絡を試みても面会に赴いても、祐治に会おうとはしません。実家でも職場でも、拒否遮断されてしまいます。

 祐治には、幼馴染にして高校時代も親友だった達也と明夫があります。地方公務員となった達也とは今でも仕事の口利きをしてくれる仲ですが、明夫との関係は微妙です。独身時代に明夫は、晴海に岡惚れしていたことが、今も気持のしこりとなっているようです。しかも明夫の妻と幼い娘とは、あの災厄で海に呑まれて死にました。その後、他県へ流れ出て職を転々としてみたものの、いずれもはかばかしいことなく、今は親元へ戻ったとはいえ、芯の抜けた暮しを続けています。

 大災害から十年。巨大な防潮堤は成りました。丘がわや山沿いには家も建ち、立派な道路も白じろと延びました。でも町の平地部分からは、海は見えません。防潮堤の向うへ越えてみれば、地元の名物でも誇りでもあった松林は、ほとんど枯れています。海沿いにも河口付近にも、剥きだしかせいぜい雑草に覆われた、荒寥たる更地が続くばかりです。
 かつてはここにも家が建ち並び、漁業関連の事務所や加工場があり、商店街もありました。どのあたりが道路だったか、商店だったか、今では想い描くこともできなくなりました。
 眼に見える設備・固形物・無機物としての町は、たしかに復興しつつあるのでしょう。が、人びとの心の裡には、まだ手着かずの領域が黒ぐろと、怖ろしい口を開け続けているようです。

 ところで、亡くなった人びとにたいする鎮魂はむろん、現在を生きる四十歳前後の登場人物たちの胸の裡にも、災厄の爪痕が今なお生なましく血を流し続けている次第は、この作品に描かれました。お見事です。人魂は墓地だけでなく、生き残った人間の内部にもたしかに舞っていると、解らせてくれました。
 が、私は脇役の老人三人にも眼を惹かれざるをえませんでした。祐治の母和子と、明夫の父六郎と、それになんといっても、深夜の砂浜で独り一斗缶に薪をくべて焚火し続ける、名も住所も素性も明らかにされぬ謎めいた老人です。いずれも主要登場人物たちの親世代、つまり読者である私と同世代の人びとです。
 老人たちは三人三様に、災厄の傷痕については固く口をつぐんで、いっさい語ることをしません。むろんそれらを語り始めたら、この程度の枚数で書き上げることなどできようはずもありませんが。それにしても、あまりにも平然たるたたずまいで、好人物らしく描かれてある三人の姿に、今後この作者がこじ開け、描いてゆかねばならぬ、遥かな領域が暗示されてあるように思えてなりませんでした。

 技法上の顕著な特色としては、起承転結を備えたひとつながりの物語として表現する構想を排して、独立小場面の断続的配列という構造で描かれてあることです。絵巻物的な帯状形態を厳しく排除して、数珠玉の並びのように描かれてあることです。各場面のつなぎ(ブリッジ、経過説明)を、徹底的に排除してあるとも云えます。
 構成主義的とも申せるかもしれません。一般論としては、長所も短所もある技法ですが、この作品においてはもっともであるばかりか、技法自体がある精神状態の暗示として成功しています。

 なにを視ても考えても、あの日のことや死んでいった者たちの面影に結びついてしまう祐治の意識は、容易に現在と過去を往来します。突如として飛びます。というよりも彼の意識においては、つねに二重の存在となっているのです。三一致の法則のごとき確然たる書割で進行させるのでは、窮屈に過ぎます。
 今現在でも祐治の眼からは、人生とは脈絡も因果関係もないブツ切れ細切れの世界と見えているようです。さような事態を暗示するのにこの技法は、まことに格好とすら申せましょう。
 ただし申すまでもなくかような技法は、この主題この材料ゆえに効果的なのであって、作柄が変ればまた事情は別となります。つまり同じ手口を毎度まいどは使えない種類の技法と云えましょう。