一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

仲良し



 まっ先に読みたかったのを、グッと我慢していた。受賞作を読んでからにしよう。私の感想なんぞ、読み足らずか見当違いに決っている。選考委員の先生がたに正していただこう。受賞作は、佐藤厚志『荒地の家族』、井戸川射子『この世の喜びよ』の二作。

 おおむね好評の受賞作品だったようだ。かつての開高健のような辛口批評はなく、大岡昇平三島由紀夫バチバチやったような形跡もない。石川淳永井龍男三浦哲郎みたいに、他委員とはまったく異なる候補作を独りで推す光景もない。昔の宇野浩二のような、今回もまた受賞作ナシの宣告もない。もっと昔の、瀧井孝作小島政二郎室生犀星佐藤春夫たちが、己の文学観を賭けて票が割れたというような場面もなかったようだ。
 今回一人だけ受賞作なしの意見表明をしたのは松浦寿輝さん。佐藤厚志『荒地の家族』の「説得力」を評価しながらも、その評言には「真っ直ぐ」「真面目」「真剣」「真正面から」などが出てくる。違和感を払拭できぬ。「現代文学の冒険は、この「真」なるものを疑問に付すところから始まったはずではないか」とおっしゃる。
 まことにごもっとも。松浦さんはそこから踏出してゆかれたのだろう。私は尻尾を巻いてそこから引返し、古典芸能の一分野「近代文学」に籠城した恰好だ。

 松浦さんと通じる懸念を表明したのは奥泉光さん。日ごろから技法の発明に注目なさる奥泉さんは、佐藤作品の受賞に賛成しつつも、「リアリズムの技法は、物語というものが必然的に身に纏う陳腐さを際立たせてしまう危険」をご指摘。
 ごもっともですが奥泉さん。技法実験なるものが身にまとう陳腐さのほうが、臭気強烈な気もいたしますが、よろしいので?
 島田雅彦さんも佐藤作品に対してかすかな留保。佐藤作品は主人公の苦闘のルポルタージュであり、主題はそこに尽きる。そして「美談はしばしば、現実のネガティブな部分を隠してしまう」とご指摘。
 これまたごもっとも。この作品で成功したからといって、いつも巧くいくとは限らないのは明白。

 佐藤作品に一押しの絶賛論をお寄せだったのは吉田修一さん。「読後、胸に熱いものがこみ上げてきた」と選評の冒頭に。誰も悪くないのに、主人公や脇役人物たちを襲った災厄の理不尽さを想い、彼らの人生が「嵐ばかりではなく、光が差した日もあったのだと祈りたい」と結んでおられる。
 小川洋子さんは佐藤作品に、「狂気の側に落ちてしまわないよう、どうにか日常にしがみついている人々の姿が、荒地の中に浮かび上がってくる」風景を読取り、「東日本大震災を文学として記すためにはどうしたらいいか、一つの道筋を明示している」としておられる。「どうしたらいいか」とは、奥泉さん島田さんがご懸念の、苦闘や美談をリアリズム的に描く場合の隘路や落し穴をいかに超えるかということだろう。
 毎回のように肯定も否定もあからさまになさらないかたちで、なんとなく読後感をまとめてしまう名人であられる堀江敏幸さんは、佐藤作品に言及する冒頭に「荒地は心のなかに巣喰う」とただ一行。ズバリ。


 全体としては、手堅いリアリズム手法をもって正面から描かれた、未曽有の災厄から十年後の現場報告と、佐藤厚志『荒地の家族』は評されている。
 本当だろうか。一反の反物のように、一巻の絵巻物のように、ひと連なりの物語として描かれてはいない。エピソードごとにブツ切りにされた場面が、数珠玉のように配列されてゆく。なにを視ても、どんな体験をしても、主人公の想念はフラッシュバックするようにあの日に結びついてしまう。つねに現実と幻覚は遺伝子のように絡みあいもつれる。だから別の数珠玉でも、同じ記憶が出てくる。作品としては、重複反復が避けられない。
 主人公の十年は、珠をつなぐ糸を探してきた歳月だったろう。今もって探しあぐねる日々かもしれない。短い場面にブツ切りされてある形式自体が、主人公の(ひいては作者の)現実感覚のなにがしかを暗示しているのではないか。その点は、委員の先生がたからご指摘いただけなかった。
 これをしも古風で手堅い(本音で云えば月並な)リアリズム手法と評して、済むものだろうか。それもまた作者心理のリアリズムに過ぎないと云われてしまえば、返す言葉もないけれども。

 井戸川射子『この世の喜びよ』については、作者の感性に全身寄添い尽したような、川上弘美さんの絶賛論が凄まじい。「快楽をおぼえ、いつまでも読み終えたくなくなってしまった」そうで、「なぜこんなに心惹かれて夢中になってしまうのか、さっぱりわからない」とおっしゃる。いやはや。
 だが「作品の持つメッセージ性や物語性などよりも、言葉が組み合わされることによって生まれる何か」といい「意味ではなく感情や感覚」が、この作品の一大特色だと指摘されてみれば、納得できぬでもない。聞えくる調べに陶然たるをえた作品ということだろう。
 山田詠美さんが「やっぱり誤読?」と、自嘲気味とも遠慮がちともとれる云い回しで、ちゃっかり独自の読取りを押出しておられるのも、もの凄い。
 おふたかただけでなく、芥川賞選考委員ともなると、「選評」もまた娯楽読み物にしてしまう芸の持ち主たちだと、あらためて感服する。

 小川洋子さんの「何も書かないままに、何かを書くという矛盾が、難なく成り立っている」とのご指摘が作品評のおそらくは核心で、多くの委員に共通する感想だったと見える。「状況設定の特別さに頼らず、平凡に描写する言葉そのものの力で小説を成り立たせる」と評されてみれば、川上弘美さんの没入も、あぁさようなことですかと納得せざるをえまい。

 二人称の主人公という描写視点の問題、かつ距離感の問題についての言及も、むろんあった。作者と物語内世界の距離設定の問題だ。ひいては作品と読者との距離にかんする企ての問題でもある。
 平野啓一郎さんは「この内面化された語り手は、主人公・穂賀の生の全面的な承認装置となっており」とご指摘。なるほどなるほど。
 一人称描写で現実味を確保しようとすれば、内省なり自己戯画化なり、どこかでみずから膝を屈し、眼を低くする工夫が必要となる。さもないとイイ気ナモノ小説となってしまう。三人称描写であればなおさら、作者には主人公への批評意識が不可欠となろう。作者(もしくは語り手)が主人公に呼びかけるかのように「あなた」と称することで、主人公は読者の前に、作者から全承認されてある人物として登場していると、おっしゃってるわけだ。
 その全承認感が「本作の不思議に光に満ちた自閉性を完結させる」とし、技法としては成功していようが薄気味悪い世界だというような、好悪どっちつかずの評価をくだしておられる。
 堀江敏幸さんは、物語の進行につれて「あなた」が主人公一人に留まってはいなくなっていると感じとられ、「現代を生きるしかないすべての「あなた」に向けた、ささやかな光の希望になりえていると私は読んだ」そうだ。大ごとですよ、これは。

 ところで島田雅彦さんと平野啓一郎さんには、一押しの作品が別にあったようだ。同一作品である。しかし抱合せ受賞の次点としては、島田さんは井戸川作品を、平野さんは佐藤作品を選んだもようだ。
 ともあれ大声の反対意見もなく、選考はめでたく終了のもよう。懇談があったか会食があったかは知らぬが、いかにも紳士淑女がたによる上品なひと時であったかに想像できる。むろん実際を知るわけがないが。ただ委員の先生がたは、さぞや仲良しなんだろうなあ、というような選評集だった。