一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

下ごしらえ

徳富猪一郎『蘇峰自伝』(中央公論社、1935)

 なにごとにも前段階、下地づくりというものがある。

 徳富猪一郎(以下蘇峰)少年が生れ在所の水俣から熊本へ出たのは、明治三年(八歳)の秋だった。父は藩庁に出仕して熊本にあり、いわば単身赴任だった。むろん身のまわりの世話を焼く使用人はあったろうけれども。
 母の妹である横井の叔母(小楠夫人)が保養に一時帰省していたのが、熊本へ戻るというので、蘇峰とすぐ上の姉の二人を引率してくれた。小舟による海路と徒歩陸路とを組合わせた、百キロにも及ぼうかという移動の旅である。

 田舎から脱けて、父の膝元熊本にて教育を受けさせようとの意図だったろう。洋学校との出逢いまでに、四つの私塾を転々としている。実学党の有力者の一人である父が、学校党の巣窟である旧藩校系の塾に息子を通わせるはずはなく、親戚の奨めや諸般の事情が加味されて、この師であればとの塾へ通うことになった。
 高野塾へは、毎朝城下を抜ける道を行く。城下に産れ育った悪童たちには、いかなる身分家柄であれ田舎出の子どもを「在郷兵衛(ざいごべえ)」と称んで、差別する気風が根強くあった。加えて教育を受ける子弟のあいだにも、禄高百石以上の士族とそれ以下の軽輩とを厳しく差別する風習があった。

 「百石取り」と「軽輩」の差がいかようなものか、私には思い浮べにくい。軍隊や自衛隊における士官と兵卒のごとき、戦時における使命や役割の相違だろうか。日常暮しぶりにおいても、截然たる区別があったのだろうか。詳らかにしない。いずれにせよ蘇峰は、いかに教育熱心で裕福な家に育った長男とはいえ、熊本への上京(?)組であると軽輩の家であると、二重に差別を受ける存在だった。
 悪口雑言に始まり、小石を投げつけられ砂を振りかけられ、向うから近づいて来たくせに肩がぶつかったの、刀の鞘がどうしただので、大ごとになりかねない。
 ここが早くも蘇峰なのだが、「触らぬ神に」作戦とでもいうか、行く手の人通りをいち早く観察し、あたりの人びとの様相に気を配る習慣が身についたという。また自分の言葉尻をおうむ返しに真似されて嘲笑される機会が続いたので、ほんらい明朗で喋り好きの性格だったのに、熊本弁(城下言葉)が習得できるまではなるべく口をきかずに暮そうと心掛け、実行したという。
 ほどなく高野塾を去る気を起した。師も軽輩身分で階級差別意識はなかったし、世を拗ねたような独身者で、髪型なども時流にこだわらなかった。ただ老母との二人暮しで、その母を相手に、師はあたりの耳も憚らぬ大喧嘩をする。少年にとっては、徳ある人とは婦女子と喧嘩せぬものだった。他には眼を瞑れても、その点には違和感があった。

 その年の暮には、熊本郊外の大江村に父が家を建て、母をはじめ一家して水俣から引越してきた。高野塾まではあまりに遠くなった。近所に父と昵懇の実学党系漢学者があり、その元田塾へ移った。門人は兄というより父と称ぶべき年配者ばかりだった。
 師は用向きで東京に出向くことが多く、代講のご長男から素読を受けた。農業の専門家で、みずから鋤鍬を取る人だった。少年は無点本(白文)の教科書を開いたが、ご長男の本には振り仮名が付いていた。
 学問的には少々頼りなくとも、蘇峰はこの塾通いが好きだった。なにしろ『絵入通俗三国志』があった。そのほか父の蔵書中にない書籍がたくさんあった。借りだすわけにもゆかないから、早め登校遅め退校にて読み耽った。ところが元田師の東京での用向きがますます繁多となり、やがては夫人はじめ家族郎党引越していった。

 元田塾の年配塾生たちの多くとともに、竹崎塾へと移った。伯母(母の姉)の嫁ぎ先で、つまり新たな師は義理の伯父である。そこも年配者だらけだった。栄えた塾で、のちに仕事を残すことになる門人も多数在籍した。
 しかしやはり親戚の塾では甘えも出がちになろうとの慮りから、兼坂塾への移籍となる。徳富家のある大江山熊本市の東郊、兼坂塾は市の西端にあり、道のりは十キロ近くあった。日々の通学には骨が折れるとの理由から、生れて初めて住込みの内弟子暮しを経験することになる。「薪水の労に服す」と見出しを打たれ、『自伝』において画期の事項のひとつとして回想されてある。明治四年の末か五年の初頭、蘇峰九歳か十歳である。

 兼坂師は脱俗の帰農学者だった。旧家老の家来筋にあたる五百石取りの武士だったが、家督の半分を弟に分け、自分は鋤鍬を取って極端な清貧生活に入った。表札の頭には身分を表明して「農」と書き入れた。妻は千石取りの立派な武家の出でありがら、台所から薪採りから家事万端みずからこなす、下女のごとく働く奥方だった。下男の役目は師の弟が務めた。
 世に粗食と云うも、兼坂塾は極端だった。麦飯か粟飯、しかも米がほとんど見えぬ飯だった。辛いばかりの味噌汁に、沢庵が付いた。たまに固い煎り豆でも付こうものなら、たいしたご馳走だった。親元での蘇峰は、麦飯が嫌いだった。麦の匂いを嗅ぐくらいなら絶食もいとわぬとうそぶくほどだった。そのうえ沢庵も嫌いだった。つまり兼坂塾の日常食膳には、食うものがないのである。この窮地をいかに凌いだか、偏食をいかに克服したかは、『自伝』に残されてない。

 内弟子数名のほかに、通い弟子にも食事は塾で摂る先輩もあった。長幼の序で、ここでも最若年の蘇峰は先輩に給仕しなければならない。十人もの食事で、自分に飯を盛ろうとするころには、最上席からお代りの声が掛けられる。味噌汁に実が残っている日など、ほとんどなかった。
 しかも最後の者が後片づけをしなければならぬ仕来りだった。この塾で身に着いた、食事とは食うものではなく呑込むものとの悪癖が、『自伝』執筆時の昭和十年、七十三歳の蘇峰からも抜けずに困っていると書かれてある。
 自家の井戸より近所に湧く名水を愛した師の意向による水汲みは年齢に関係なかったし、入浴時は師の背中を流した。詩の夕べだの画の寄合いだの、文人付合いの外出も多かったが、最年少につきことのほか可愛がられたものか、荷物持ち提灯持ちの随行二名は、蘇峰ともう一人と決っていた。また晩酌だか寝酒だかを、師はゆっくりと愉しむのがつねで、傍らに控えた蘇峰は、毎夜のごとく襲い来る睡魔との悪戦苦闘を強いられた。『自伝』では兼坂塾にて学んだ生涯の教訓を数えたなかに、酒というものはじつにくだらぬものである、という一項がある。
 詩も書も画も好きで、たしなみも同好との交際もある、画に描いたような清貧の文人だが、いずれかにおいて傑出したでもなく、蘇峰によれば「どれもひと通り」の師だった。『唐宋八家文』が教材だった時、蘇峰は白文を開いていたが、師は頼山陽の註が付いた有点本を使っていたと証言されてある。

 蘇峰は後年、半生に出逢うを得たありがたき恩師として二人を挙げている。一人はのちに同志社にて出逢う新島襄であり、もう一人はこの「兼坂先生」だ。
 学者としての学問の高さでも、文人としての技芸の巧拙でもない。清貧篤学の士でありながら、一方で書斎の建具をガラス障子にして誰からも見えるようにしたとか、ロウソク行灯の時代にランプを使って読書したなどの例に見える、進取の精神、進歩観念への信頼ゆえだ。そしてなによりも、平民主義、凡人主義、平等主義の萌芽をこの師から学び取った。
 ホームシックに駆られて塾を逃げ出すこともあった少年だった。それが間もなく、傍若無人とすら云える容赦なき向学野心で火の玉のように燃えさかる、洋学校の上級生たちと出逢うことになる。カウントダウンのような日々だった。