一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

認知症



  初期認知症候群。悪いことばかりでもない。

 昨年のいつ頃だったろうか。肉じゃが(のようなもの)ばかりを作って食べていた時期があった。ひと鍋作ると、四日ほどは食うから十六日か、うっかりすると二十日近くは、食膳の一品となっていたのではなかったろうか。さすがに飽きて、その後は忘れていた。
 あれこれ組合わせているうちに、じゃが芋だけが余って、日にちが経った。そろそろどうにかしなければ……。で、そうだ肉じゃがだと、久びさに思い出したわけである。そういえば豚肉も、しばらく口にしていないなぁと、併せて思った。むろん私にとって肉じゃがの「肉」とは、豚肉のことであって、牛肉は使ったことがない。

 思い出しはしたものの、さてどう作ったんだっけ。なにか勘所というか、注意事項があって、体得した気になった憶えがあるが、具体的な記憶がない。不出来だった反省の回も、ニンマリした達成感の回もあったはずなのだが、てんで憶えてない。
 昔から、女に胃袋を摑まれちまったら男なんぞイチコロだと云われる。そんなとき実例として挙げられるメニューには、必ずといってよいほど肉じゃがが含まれる。お袋の味なんて言葉が出てくるさいもさようだ。
 へえ、こんなもんがねえと思った記憶もあるのだが、それも詳細を思い出さない。

 どう云ってみたところで、たかが肉じゃが。面倒な食材が入るわけでもあるまいし、今さら料理自慢のおかたのレシピをネット検索するにも及ぶまい。いつものヤマ勘とエイヤッで、やってしまおう。で、つまりはいい加減にやり始めてしまった。
 豚肉を炒めながら思い出した。そうだ、最初の油にショウガをどれほど投じるかを、加減して比較したのだった。玉ねぎをすべて投じてしまってから思い出した。そうだ、汁に煮溶けてしまうぶんと姿を残すぶんと、二度に分けて投じたこともあった。人参とじゃが芋を投じてから、そうだ、下茹でしてそのぶん仕上げ煮の時間を短くしたこともあった。出汁がこってり染みてドロドロの肉じゃがと、材料それぞれがくっきりしている肉じゃがと、いずれが美味いかという問題だった。

 つまりは過去の比較検討はなにも身に着いておらず、もっとも最短コースの手抜き肉じゃが(のようなもの)ができ上ってしまった。玉ねぎのほとんどが煮溶けて甘口の、ドロドロ汁に仕上ってしまった。お袋は、かような見映えの悪いものは作らなかったなあと、余計なことまで思い出してしまった。
 心残りな気も、少しする。またしばらく、肉じゃがを作り続けてみようか。いやいや、春だというのに、肉じゃが研究でもないだろうに。


 三日前に仕立てて、本日使い了りのヒジキ豆を、粥飯の上にどっさり山盛りに載せる。掻っこみ用だ。こいつで腸の機嫌はたいてい治り、快通となる。私の基本健康食である。こちらは肉じゃがよりもはるかに年季を積んできているから、忘れっこない。考えごとしながらでも、毎回ほぼ同レベルの出来映えを維持できる。好奇心も研究心も必要ない。その反面、冒険の要素もなく、退屈である。

 そうしてみると、毎回あれこれ考え込んだほうがよろしいのだろうか。調理法などは、そのつど忘れちまったほうが、精神衛生上よろしいのだろうか。
 どうせ自分一人で食べるのだから、いつも寸分違わず同じ味である必要はない。忘れたり思い出したりしながら、失敗もしたほうがよろしいのだろうか。
 とすれば初期認知症は、炊事に向いているという結論になるのではないか。いささか得意なる新説の発見である。目下のところ、次回の肉じゃがに、白滝か糸こんにゃくを加えるか加えないか、かなり深刻な思案のしどころだ。これも以前に試して、いちおうの中間結論を出しておいたはずだったのだが、さて、その結論を思い出せない。