一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

おばあちゃん

佐藤洋二郎『百歳の陽気なおばあちゃんが人生でつかんだ言葉』(鳥影社、2023)

 ありがたいですねぇ、めでたいですねぇ、微笑ましいですねぇ。でもね、この本、ウッカリできませんですよ。

 作家のご母堂おん齢百歳。数年前に肺炎を患われたのを機に、ケアセンターに通ったりリハビリを心掛けたりなさってはいるものの、いたってお元気。周囲のお世話になりたくなくて、息子夫妻との同居もいや。なんでもご自分でなさりたい。でも孫たちがやって来るのは、なにより大好き。お若い時分から無類のお喋り好きで、日がなラジオを点けっぱなしにしているので、世の中のこと万端よくごぞんじ。

 乙女時代は軍国一色でした。あの年、徴用先の広島市から夏休み帰省したのが八月五日。帰省日をずらした仲間たちは、翌日のピカで、全員行方不明となりました。
 結婚して三人の子宝に恵まれましたが、四十歳のとき未亡人となりました。以後ずっと独身です。ああしろこうしろと口うるさくは云わぬ主義でしたが、三人の子はよく育ちました。いずれも健在で、それぞれ老人老婆となりつつあります。とりわけ身勝手に生きた長男は、小説家になったようです。

 人間は言葉に支えられて生きているのではないか。人生とは言葉を探す旅なのではないか。さよう考えた作家は、自分より長く苛酷な半生を過してきたに相違ない母親の口から、おりに触れて発せられた印象的な云い回しや譬喩や形容を、記憶したり書き留めたりしましたとさ。そのメモを取出して今、あらためて考えてみたり、当時を思い出したりした実録随筆集……ということに、なってるんですがね。
 もちろん作者も版元も、さように読まれたいと、思ってはおいでなのでしょう。書名はもとより、装幀の絵柄からも色合いからも、女性読者を主眼に据えたコンセプトが匂い立ってきます。

 たしかに作家である長男を視点人物かつ語り手として、さように書き出されました。が、章が進むうちに習い性とでも申しましょうか、小説家の配慮が顔を覗かせ始めます。
 妻(おばあちゃんからは嫁)だの、語り手の妹(おばあちゃんからは娘)だの、その子ら(おばあちゃんからは孫たち)だのが登場すると、もういけません。だれの眼がなにを窺っただの、だれの眼が一瞬だれの眼と合っただの、ふいに黙りこくっただれをだれが視逃さなかっただの、これはもう、小説のやり口ですよ。

 愉しく気軽に読んで欲しかった随筆において、思わず小説家の力瘤があらわになってしまったのでしょうか。いえいえまさか、この作家はさように素朴な好々爺ではありません。文学的策略にも人心把握にも長けた、手だれの文士。油断大敵です。
 だいいち書名からしてなにごとですか、「おばあちゃん」とは。作中でも終始一貫「おばあちゃん」で通されております、語り手のご母堂が。実録がごとく随筆がごとく装われて、じつは客観的人物像を丸彫りにするための配慮じゃありませんか。

 でも作中に、嘘は書いてない。噺を盛ってはいない、とおっしゃいますか。はい、おそらくそのとおりでしょう。ではフィクションではあるまい。いえいえ、そこが問題なのです。
 事実をもとにしたフィクションと申した場合、実在しなかった部分を書き足す、見えざる部分を想像で補うなどを思い浮べがちです。が、玄人の小説家は別のことを考えます。実在したことを省略する、見えている部分を見えなかったことにすることで、いわば引き算のフィクションを成立させようと、策略を練ります。

 ご母堂のお人柄が微笑ましく伝わってまいりますよ。滋味深き言葉に、思わず襟を正す気にもさせられますよ。どんなことがあっても戦争だけはいけないとの想いを、新たにさせられますよ。
 それらメッセージの背後で、佐藤洋二郎さんは案外、俺がいちばん苦心した点についちゃあ、めったなことでは気付かれまいと、思っておられるかもしれませんよ。
 将来、『作者自選短編集』のなかに、ちゃっかり本書の一章が紛れ込むかもしれませんよ。視張っておりましょう、皆さん。