一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

もんぺ

熊谷守一美術館、往来に面した外装画。

 往って帰ってきただけでは散歩にもならない。それほど近所に、熊谷守一美術館がある。一九八五年開館だそうだが、私は記憶していない。気が付いたら開館していた。会社員時代、つまり我が生涯でもっとも目まぐるしかった時期に当っていて、美術界の情報に疎かったのだろう。
 熊谷ご夫妻が住んでおられたお宅の跡地が、画伯没後に美術館となり、やはり画家でいらっしゃる次女の榧さんが館長となり、今日まで続いてきた。
 二階は企画展示室だが、一階には熊谷守一作品の常設展示室があり、喫茶スペースもある。いつ立寄らせていただいても気持の好い、小美術館である。

 悪ガキ時代は、いつもというほどではないけれども、時どきは前を通った。熊谷家もお隣も、庭木の多い平屋の日本家屋だった。というより、四ツ目垣の向うはうっそうたる藪のごときで、表からはお住いの様相など窺い知れなかった。
 後年の資料や書物によって、あの薮の向うで画伯が、草木や猫や蛙や蟻んこを観察しておられたのだと、また縁側で夫人をお相手に碁を愉しんでおられたのだと知った。
 悪ガキにとっては、「あそこのスゲェ樹ばっかの家」だった。

 碁の腕前は、夫人が少し上だったらしい。たいていは画伯が負ける。たまに夫人がポカをやらかして、画伯が夫人の大石を獲ることもある。「おや、獲られましたねぇ」お二人上機嫌で石を崩し、もう一局ということになる。
 日本美術界の長老、九十歳の画伯が縁側で夫人をお相手に囲碁。これは好いというので、囲碁雑誌の編集者はさっそくカメラマンを伴って取材に参上。が、すごすごと帰ってきた。
 「ありゃあイケネエや、囲碁じゃねえ。石を撒いてんだ」
 首尾を訊ねられた編集者の弁である。

 梅原龍三郎安井曽太郎を知ってからも、熊谷守一を知らなかった。谷川徹三『芸術の運命』(岩波書店、1964)によって、我が国にさような画家のあることを知った。美術館では注意して観るようになった。関連本や画集はまだ多くない時代だったが、手に入れられるものは観た。
 それでもまだ、近所の「スゲェ樹ばっかの家」が画伯のお住いとは、存じあげなかった。もし知っていたら、まさか直接お訪ねするあつかましさは持合わせぬとしても、それとなく注意していて、なにかの拍子にお見かけすることくらいできたかもしれなかったのに、惜しいことをした。

 熊谷作品は大きくない。四号か六号、十号を超えるものはあまりない。展覧会直前ともなると上野の美術館の搬入口には、トラックが次つぎ横づけされて、厳重に梱包された大作が慎重に荷下ろしされる。それが普通だ。
 半白のザンバラ長髪に長い顎髭、もんぺを履いた作務衣姿の小柄な老人が、二枚か三枚のカンバスを無造作に風呂敷包みにして小脇に抱え、すたすたと通用門をを抜けようとする。「こらこら、ここから入っちゃいかん」善意の警備員さんは、熊谷守一画伯がなにものか、承知するはずもない。いく度もあったそうだ。

 坂本繁二郎と画伯とは、たしか美術学校(現東京芸大)で同期のはずだ。双方の作風はあまりにかけ離れているから、ライバルということにもなるまい。坂本繁二郎は馬だろうが牛だろうが、能面だろうが桐箱だろうが、砥石だろうが布紐だろうが、ジィーッと視つめて奥まで視線を透し、存在の本質に語りかけようとする。桐箱や砥石は、板や石であることをやめる。
 が、熊谷守一は「坂本は一体全体なにが面白くて、命がありもしないものを、夢中に描いているんだろう」と、怪訝そうだったという。繁茂する樹や草に囲まれた、けっして広いとは申せずとも気持の好いお庭で、画伯は蟻んこやトンボや、アメンボや蛙を観察して、愉しげに描いた。
 八十なん歳かの毛沢東の書を観た、九十五歳の画伯。「毛さんも解ってきたようだなぁ」と感想を漏らされたという。

『いねむるモリ』熊谷守一美術館、入館口石像。

 なにせ熊谷守一の作品は小ぶりだから、作品数の点でも内容の点でも、一階の展示室だけで十分堪能できる。これだけまとめて熊谷作品を観られるところは、おそらく他には日本中どこにもないのだろう。
 貴重な小美術館を指揮してこられた熊谷榧(かや)館長が昨年亡くなられた(享年九十二)。二月二十四日は一周忌である。