一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

円空

谷川徹三『芸術の運命』(岩波書店、1964)より切取らせていただきました。

 今では行届いた写真集がある。『別冊太陽』『芸術新潮』ほかで、写真と解説満載の特集号も出ている。

 学生の分際で円空仏について知る機会は、ほとんどなかった。谷川徹三『芸術の運命』との出逢いは、熊谷守一坂本繁二郎に近づくきっかけを得た点で巨きかったが、円空を知ったことはもっと巨きかった。元禄年間に入寂した天台の僧である。西鶴芭蕉の時代だ。旅先で当地の材に仏像や神像を彫り、長逗留することなく次の地へと発ってゆく暮しを続けた。
 鉈彫り(なたぼり)という昔から民間にあった粗彫りの技法で、あっという間に彫りあげてしまう。桜材から高さ一八〇センチの仏を一日で彫りあげた記録が残っている。

 木目が衣紋となったり髪筋となったり肌目となったり、融通無碍にして自由自在だ。彫り跡の粗さからか秘蔵されたりはせず、鍵もかからぬ村はずれの破れ堂でひっそり埃を被っていたり、物置に捨て置かれたり、庄屋屋敷の縁の下に転がされたままになっていたりした。
 なかには玩具となって、仏をぐるぐる巻きにした荒縄を腰に着けた子どもらに曳きずり歩かれたりしたものもあった。だが子どもらは遊び飽きると、もと置かれていた場所へ正直に戻しておいた。

 二十世紀モダンアートの時代となって、円空仏に光が当るようになった。社会の進展、科学の進歩を横目に、芸術が行詰りを見せ始めていた。近代芸術の約束ごとや常識を窮屈と感じる芸術家や具眼の論客は、古代や太古の造形に憧れたり、アフリカ諸地域の伝統工芸に注目したりした。
 円空自身は十二万体の仏を彫りあげたいと祈願したらしいが、実際に何体彫られたかは定かでない。谷川徹三執筆時には千五百体ほどが発見されていた。うちの千体ほどを谷川は観て歩いたという。指人形のごとき小品から丈余の大作まであるという。

 近代芸術の規矩から脱けだして、デフォルメの自由や抽象の冒険を志す芸術家が、円空に憧れる心理を納得しながらも、双方には対極的ともいえる相違があると、谷川は断言している。
 そも『芸術の運命』は、二十世紀モダンアートの必然性と可能性、さらには限界と不毛性を考察した一巻だ。その書から、熊谷守一坂本繁二郎円空だけを取出したのは、私の部分読みに過ぎない。

 谷川は云う。円空の彫刻は芸術であるまえに信仰だった。仏への讃迎であり、済民の志だった。紛れもなき宗教芸術だったと。いっぽうモダンアートは、神仏を否定したかもしくは神仏から見放された孤立無援の個人が、具象から追いたてられて、デフォルメあるいは抽象へと飛翔せざるをえぬ、孤独な野望であると。
 モダンアートのほんのひと握りの天才は、未来の造形常識を予言的に先取りして、永く記憶されるかもしれない。が、大半の現代芸術家は、時代の進展と心中するように歩み、一時代が画された時点で役割を了え、まったく顧みられなくなるほかあるまい。

 かような現代芸術論の文脈において、二十世紀モダンアートの宿命的疾病体質から逃れえている稀有な例として、熊谷守一坂本繁二郎が、さらには柳宗悦の民芸美論が俎上に載せられた。そして現代芸術家の憧れをいかに集めようとも、一見通じるように見えても根柢的に異なるものとして、円空仏が例示されたのだった。