一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

美を分類

谷川徹三『繩文的原型と弥生的原型』(岩波書店、1971)

 前著『芸術の運命』から多くを学びえた私は、次著『繩文的原型と弥生的原型』を、刊行からさほどの時を経ずして購入したはずである。結果は、前著以上に蒙を啓かれることとなった。

 「漢才(からざえ)」と「大和魂」だとか、「益荒男振(ますらおぶり)」と「手弱女振(たおやめぶり)」だとか、心栄えや才能や人間味に関する二分法はすでに知っていた。本来十人十色、多様多彩にしてそれぞれ個別的なる実態を、対照的指標を立てることで二元論的に解りやすく整理する分類法だ。
 平面上で不規則に散らばった諸点を、X 軸に沿って、またY 軸に沿って、数直線上に配列させてみるようなもんだ。それで云い当てたなんぞとは、とてもじゃないが申せまいが、問題の広がりを把握しやすくできる。座標の効用だ。
 日本の美の形態について、また日本人の美意識の歴史について、似た二分把握法が応用できそうだと、この本は教えてくれた。

 仏教伝来により、概念と論理による圧倒的な力が加えられる以前の、日本に注目する。それどころか言語による交流や掣肘が発生する以前の、つまりは歴史時代が始まる以前の、日本に注目する。歴史学でなく考古学が語るところに、耳を傾けるわけだ。
 時あたかも、考古学的発掘フィールドワークが著しく進んで、従来想像されていたよりもはるか昔から、この地に人が住んでいた形跡が次つぎ発見され報告された時期だった。科学技術の寄与も大きかった。放射性炭素 C14 による年代測定法により、縄文時代はそれまでの仮説より三倍も長かったと確認された。
 この列島には、狩猟漁撈の民が驚くほど長い年月わたって住んでおり、そこへ南から列島伝いに、または現在の中国南部から海を渡って、種籾と稲作技術をもった農耕民が九州北西部へ上陸した。長い年月かけて、打ち寄せる波のようにいく度もやって来た。
 遺伝子を解析できる現代の科学は、狩猟民と農耕民による混血の割合から年月速度まで推測させる。考古学分野での発掘結果と重ね合され、新たな仮説が可能となった。

 そこで谷川徹三の眼だ。片や縄文式土器土偶、もう片方に弥生式土器と埴輪。双方の呪術性と実用性の相違は。道具と用途についての感性の相違は。信仰心の相違は。ひっくるめて空間概念の把握方法の対照は、つまり同族のなかでいかなる美意識が共有されてあったか。
 それだけなら学問的仮説から出ない。その後今日までの日本人の美術・文学・演劇その他の芸術に通底する、美意識の根柢とはいかなるものだったか。曖昧な抽象語を避けて直截即物的に、縄文的原型と弥生的原型と指標化して見せた。
 人は谷川徹三を哲学者と称ぶ。さように称ばれるべき業績も他にあるのだろう。私は知らない。私にとっては芸術史評論であり、広い意味での文芸批評だ。

 飛鳥仏と平安仏、伎楽面と能面、白隠の書と良寛の書、志野・織部と九谷・京、安土桃山障壁画と初期肉筆浮世絵、北斎と広重……すなわち動的と静的、力感ときにグロテスクと優美典雅ときに退屈。その他いくつもの美意識における対照が、その淵源を仏教伝来以前の日本人の組成から脈絡づけられた。
 ジャンルの壁を越えて、美意識の歴史推移には共通性があると、私は思った。時代社会の反映や作者の生活環境といった外部要件によるほかに、美意識というものに内在する自発的問題として、それはあると、私には思えた。思考の範囲を広げ、文学はもっと広いと信じるきっかけを授けてもらった。
 読後満足し、安心し、自信すらついた気がしたもんだった。じつになんとも、無知無学のなせるわざだった。じっさいの日本美意識史は、二元論では解けない。少なくとも三元論の必要があった。そのことを思い知って愕然とし、打ちひしがれた想いを味わうには、さらにもう少し読書が必要だった。