一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

湯冷め夜桜


 フラワー公園のマメザクラが開花近しとの画像を提示して、十日が経った。幹の径およそ二センチ、背丈私より少々高く、およそ二メートル。成木らしいが幼木の風情。夜桜鑑賞である。

 自宅浴室で風呂を炊かなくなって、もうなん年にもなる。シャワーのみの使用だ。
 三十年近く以前、父の症状がだいぶ顕著になってきたころ、あわや大事故と肝を冷やした出来事がいく度もあった。家事の一端を担ってくれるつもりだったらしい。風呂のガスに点火したまま、うっかり忘れてしまうのである。
 家内のどこかから、ゴーッと低い音が聞えてくる気がした私は、もしやと思って浴室へ駆けつけると、湯槽には蓋がしてあるにもかかわらず、浴室は湯気もうもう。湯槽はグラグラ音を立てて、細かく振動しているようだった。
 慌てて火を止め、二方向の窓を開け放ち、湯気と湿気を逃がした。蓋を取ると湯はだいぶ減っていて、もう少し水位が下ればガスバーナーとをつなぐパイプが湯面に顔を覗かせそうだ。そうなったら湯ではなく熱気と湯気だけがバーナー方向へ運ばれてゆくわけで、故障は当然として最悪爆発でも起されたら、大事になるところだった。
 父にはタイマーを持たせて、首に掛けてくれるよう頼んだのだが、煩わしい邪魔臭いといって、しばしば外してどこかへ置き放しにする。そんな時に限って、家事を助けてやろうとの気を起す。
 はて怪しいぞと私に不吉な予感が働いて、事なきをえた場合が多かった。が、不意を突かれて、また私もうっかりしていて、あわや大事と肝を冷したことも三度あった。熱気充満湯気もうもうの現場へ父を引っぱって行って、以後風呂は私一人が担当することにして、父の善意はいっさい厳禁という措置を納得してもらった。

 それから二十数年して、独居老人となった私が、まださほどボケてもいないくせに、かつての父と同じうっかりをやらかしたのである。我ながら愕然とした。しかも私には、気付いて修正してくれる身内もない。途中で思い出したから助かったものの、うっかり状態から醒めなければ、いかなる結果を招来していたものやら、背筋が凍るとはこのことだ。
 で、浴室はシャワー専用とし、お湯屋さん通いを復活させた。だいいち入浴者は一人だし、炊いた日に入浴しないで翌日追い炊きしてみたり、勘案してみると、いずれが経済的かも判然としない。安心安全には換えられない。

 徒歩圏内にお湯屋さんが三軒ある。古い町のありがたいところだ。お湯屋と質屋の暖簾がさがっているのは、長く姿を変えずにこられた町である証拠だ。
 お湯屋愛好家でも評論家でもないから、気分次第でどの湯へも行く。うちの一軒への道すがらに、フラワー公園を通過するわけである。

 お湯屋の混み具合をグラフ化すると、ふた瘤ラクダ状態となる。わが近所での住民分布および傾向に限ってだろうが。
 夕方早めに湯を浴びに集る連中がある。仕事了えて、なにはともあれひと風呂ザブリ組だ。汗みづく油まみれとならざるをえぬお仕事のかたなら当然だ。さっぱりしてから夕餉の膳に向うライフスタイルだろう。今宵は繁華街へと繰出して、女性のいる店ででも一杯とお考えであれば、なおさらだ。
 この客波が、八時から八時半にいったん引く。十時を回ってから、終業の午前一時までは、一日の最後にゆっくり湯に浸かりたい連中で混む。食事も済んだ。遊びも済んだ。温まったら、あとは帰って寝るだけとのライフスタイルだろう。今日も一日ご苦労さん、明日もよろしく組である。

 ふた瘤の間の窪みと申そうかくびれと申そうか、八時半から十時の間が、時間勝手な暇老人の狙い目時間帯だ。近隣住民の分布と習性について考察できてからは、この時間帯にしか行かないようになった。世に同様の認識に立つ御仁とはあるもので、人影少ない洗い場でストレッチや柔軟体操に熱心なかたがある。一度躰を拭いて上ったかと思いきや、脱衣場の隅の自販機で飲物を買って腰掛け、しばらくするともう一度洗い場へ戻り、低温の薬湯槽にゆっくり浸かるかたもある。つまり暇人タイムだ。
 かと思えば、躰の一部がご不自由で、用心しながらゆっくり入浴せねばならぬかたも、この時間帯の定連だ。じろじろ観察するわけにもゆかぬが、それとなく窺っていると、なるほど知恵というものはあるものだと、感心させられる。

 ついこの間までは、お湯屋までの道のりが億劫だった。気が進まなかった。帰りは寒くないとはいえ、湯冷めせぬようにさっさと戻ったものだ。
 宵の空気も、めっきり変ってきた。昨夜はフラワー公園で無駄な時間も過した。