一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

芽ではなく

 


 昨日は東京大空襲を思い出すべき日だった。七十八年が経った。私一個にとっては、亡母の誕生日だ。九十七年が経ったことになる。
 散髪に出掛けた。年明けてからというもの、人さまとお会いする仕事もなかったし、もとより少量の髪だしということで、すっかり横着していた。来週は珍しく人前へ出てゆく仕事の予定が入っているので、人並みにする気になった。
 そして今日は、東日本大震災を思い出すべき日だ。十二年が経った。

 昨日はサッとひと雨あったが、ほんのひとときで上り、うららかな陽気だった。散髪屋さんは、お湯屋さんへと同じ道筋のやや手前にある。つまり途中にフラワー公園の前を通る。今回は夜桜などではない。
 花壇の作り替え作業の日だったらしく、ほぼ完成したところだった。昨日まではハボタンが列をなしていたはずだ。マリーゴールドやノースポールや知らぬ草花が、見事な列を作っている。植付け直後の馴染ませに、水をたっぷりかけているところだった。

 作業員さんたちの姿を眼にするのは初めてだ。どんなかたがたが花壇づくりの作業をなさっているのか、かねがね疑問に思っていた。豊島区の職員さんだろうか、地域のボランティア活動だろうか、区から委託された業者さんだろうかと、あれこれ想像してはみたものの、わざわざ調べたり区役所へ訊ねに出向くまではしないでいた。
 どうやら寄合い混成軍だ。足元もしっかりこしらえて、上っ張りからつば広の麦わら帽子まで、農家の女衆のごとき完璧装備の女性がいらっしゃり、長い前掛け姿で園芸店ご主人のようなかたもいらっしゃる。かと思うと、作業を手伝う気なんぞまったくなさそうな、オブザーバー然とした男女もおいでだ。ほど近くには、苗や土や道具類を運んで来たと見える、かなり巨きな幌つきトラックが停まっていた。

 「お仕事中お邪魔いたします。一枚撮らせていただいても、かまいませんか? お顔は決して写り込まぬようにいたしますから」
 前掛け姿の園芸店店主風の男性が、エヘヘとかすかに笑い声をあげた。承諾の表情だった。
 「昨日までは、ハボタンだったのにねぇ」
 どなたにというでもなく、やや大声で云ってみた。不審者感を払拭したかったのだ。案の定、農家女衆風もオブザーバー風もいっせいにこちらへ顔を向け、一瞬で表情がなごんだ。
 「お邪魔さまでした。ご苦労さまです」
 通り過ぎようとしたら、農家女衆風の女性から「ありがとうございま~す」と声を掛けられた。

 ―― ほんとに慌てたときって、人間はしょうのないもんで。ろくでもない物ばかり持って逃げました。弟はギターを抱いて逃げたんです。避難所では、不安なのと寒いのとで、眠れない夜も多かったです。弟のギターを持出して、近くの林で岡本真夜の 「TOMORROW ] を唄いました。ていうか、大の男ががなってたんですわ。
 ♬ 涙の数だけ強くなれるよ~ 明日は来るよ君のために~
 レパートリーは一曲だけです。繰返し繰返し、唄いました。数えてませんが、百回近くも唄うころには、夜が明けてきました。

  ―― 乳呑児を抱いて逃げました。避難所では、母乳が止りました。小母ちゃんがたからいろいろ教わったんですが、駄目でした。主人は遠くまで買物に行ってくれました。ミルクひと缶に、二時間並んだそうです。ほんとうにありがたいと、思いました。その子が今週、卒業式です。

 散髪から戻りしなに視あげると、拙宅老桜のツボミはますます丸みを帯びてきてはいるものの、まだ一輪も開花していない。それよりはつい視逃しがちだったが、隣の花梨がこのところの反応著しく、気づけばこれはもう芽ではなく、すでにして葉だろう。若緑の嫩葉である。
 落葉は桜のほうが足早だ。年末まで葉を降らせて旧年中には散り了え、正月は丸坊主となっていた。花梨もそのころ、そうとう葉を降らせるが、半分ほどは枝に残して年を越す。松が取れても、まだ最後の落葉を続けた。
 そのくせ春の立上りは、桜より早い。精力的な奴である。