一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

蟻の一歩

熊谷守一(1880 - 1977)

 積上げる、志す、完成に向けて努力する、という方向以外にも、老境の澄みかたはありうるんじゃないか。熊谷守一はさような夢を抱かせてくれる画家だ。

 付知(つけち:現中津川市、近年まで恵那郡)の生家では三男坊だった。姉妹もあった。父は不在がちだった。岐阜へ出て製糸工場を営んでいたのだ。岐阜の家は旅館を買い取った広い家で、お妾さん二人とその子どもたちが暮していた。つまり異母兄弟姉妹がいく人もあった。のちに父は岐阜に市政が敷かれると、初代の市長に就任した。
 岐阜の家では片方のお妾が権力を握っていて、子どもらにお母さんと呼ばせていた。幼い画伯も付知から岐阜へ呼び寄せられ、このお妾さんをお母さんと呼ばされた。二階の九十畳の大広間のまん中で独り、女中が運んで来た膳で食事した。なにもかもゴチャゴチャしていて、子ども心に心底うんざりだった。学校ではどんな授業にも身が入らず、窓の外を飽きずに眺めていた。空も雲も風も、木々も鳥も虫も、とても面白かったが、教室の中には面白いものがなにひとつなかった。立たされ坊主の定連だった。

 中学を中退するようにして東京へ出た。父の希望で慶應義塾の普通部に籍を置いてもみたが、一学期しかもたなかった。美術の予備校へ通い、東京美術学校西洋画科選科に入学した。下宿や貸間をいく度も引越した。二十四歳のとき卒業した。
 農商務省樺太調査団に加わった。漁場調査の報告書に添付するために地形や風俗や海産物などの画を描く仕事があったのだ。酷寒と凍結の冬は仕事にならないが、それ以外の季節を二年間にわたって働いた。
 アイヌ民族の漁師たちの暮しぶりに衝撃を受けた。家族が食うだけのものを収獲すると、浜に腰を降して海を眺めている。なん時間も、なん日でも眺めている。なにを視ているものか、そのときの画伯には解らなかった。
 東京へ戻って描いた画が、文展に入選し、翌年の文展でも賞を受けた。二十八歳から二十九歳の画壇デビューで、今日我われが画集で眺めうる最初期の作品群だ。キャラメル色や珈琲色の勝った、重く厚い人物画で、並の画家よりどこがどう優れているのか、私ごときには観分けがつかない。

 母の他界に遭い付知に帰った。葬儀が済んでも、東京へは戻らなかった。
 山の製材所で働いた。林業の盛んな地方だ。伐採もしたが、日傭(ひよう)に興味を抱き、懸命に稽古した。丸太乗りだ。
 伐り出された丸太を下流の加工場まで川に流す。長さは十三尺五寸もしくは五尺五寸と決っていた。一本の丸太に乗りながら、周囲前後いく本もの丸太を按配して捌く。落ちれば水中に潜る。綿入れなどはかえって危険で、日傭たちの出で立ちはつねに薄着だった。冬の水中はむしろ安全で、岸へ上ったとたんに身に着けたものがバリバリと音を立て始めた。岸ではつねに、ドラム缶に火がガンガン焚かれてある。水の中を移動して、なるべく火に近づいてから岸へ上り、懸命にドラム缶へと走った。

 山に六年働いた。三十五歳にして東京へ戻り、また画を描き始めた。新興の第二回二科展に出品し、第三回展から会員に推挙された。以後戦争激化につき三十回展にて二科会解散となる直前の二十九回展まで、出品し続けた。
 その間の大正十一年、四十二歳のとき、秀子と結婚。新妻は二十四歳だった。昭和七年、五十二歳のとき、数え切れぬ引越し生活に終止符を打ち、終の棲家となる豊島区千早町に家を設けた。新築だった。
 戦後の二科会復活には参加しなかった。というより、画壇付合いのいっさいから身を引いた恰好となった。描きたくなったら描く、気が乗らなければいつまででも描かないという暮しを貫いた。
 極貧生活は長く、子どもが熱を出しても、医者に診せる費用を捻出できなかった。画を描いてくれればよいのにと、妻はいく度も思ったという。夫は描かなかった。

『たんぽぽに蟻』(1968)紙本淡彩

 昭和三十九年、八十四歳、東海道新幹線開業の年、東京オリンピックの年だ。パリでの個展を機に国内外に熱烈愛好家が増え、画の値段もうなぎ登りとなった。そうなっても、画伯の暮しぶりにはいささかの変化もなかった。樹木と草ぐさに覆われた平屋の日本家屋にあって、大好きな小鳥を飼い、けっして広いとは申せぬ庭で蛙や蟻を観察しながら、夫人とつましく暮していた。
 その年、文化勲章授与の内示が舞込んだが、辞退した。お国のために、なにひとつしたことはないから、との理由だった。

 歳月をかけてなにごとかを成し遂げるということは、忍耐か努力か鍛錬か、はたまたなにごとかを積上げてゆくことなのだろうか。むしろ消去省略してゆくこと、脱ぎ捨ててゆくこと忘れ去ってゆくこと、だったのではないだろうか。
 なにせ九十七歳までお元気だった画伯の歩かれた途だ。九十五歳のとき、八十歳を超えた毛沢東の書を観て、ほおぅ、毛さんも少しは解ってきたようだと感想を漏らした画伯だ。私ごとき若僧に、まだまだ判断のつく問題ではありえない。

 画伯による、ファーブル級の大発見がある。立ち止っていた蟻がふたたび歩き出すさいには、どの足から踏出されるかとの観察報告だ。まず左の中脚が動くんだそうである。
 私には、おおいなる疑問がある。果たして蟻は立ち止るであろうか、という問題だ。そもそも蟻は立つであろうか。伏せ止る、あるいは這い止るであれば、妥協せぬでもない。画伯の仰せなれど、蟻の立ち止る説に対しては、いささか保留させていただきたい。
 左中脚の件については、昆虫学者からも理科の教員がたからも、その他いずれの方面からも、いまだご承認あるいはご同意のご意見を耳にしない。が、これは間違いないことだ。少なくとも豊島区の蟻は、左の中脚から歩き出すのである。さように違いないのである。