一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

いつでもオーライ

石田芳夫『無門』(日本棋院謹製)

 お前に用意された門などない。汝の入門を許さず。なにやら容赦のない、厳粛拒絶の言葉とも聞えるのだけれど。

 修証一如について、谷川徹三はもう少し先まで紹介してくれている。
 端座参禪を修行の正門とする教えにたいして、かようなクエスチョンが寄せられる。弟子僧からだろうか。
 「いまだ修行中の者には、そりゃ座禅が必要でしょうが、すでに修行を積んで悟りを啓いた者には、今さら座禅でもないのでは?」
 道元アンサーはこの問いを、厳しく退けている。いく様にも言葉を替えて、繰返し諌め、強調している。
 「修証(修行と悟り)が同一でないとするのは、外道の考えかただ」「悟りが啓けたのちには修行の必要ないなどという言いぐさは、仏祖の道にてんで理解及んでない凡夫のタワゴトだ」
 そしてこう諭す。「道は無窮なり。悟りてもなお行道すべし」と。

 悟りは、固形物として身に帯びられるものでも、所持できるものでもない。取出して固定することなど不可能なのだ。修行しているあいだだけ身に沿うてあり、修行尽きたとたんに身から離れる。
 逆に境地が維持されてあれば座禅のみならず、いかなる行動も修行の一環となりうる。ゴミの分別だって、草むしりだって、保存食づくりだって修行だ。すなわち修証一如。修行と悟りとは同時のものにして、表裏一体のものとされる。
 どこかで似たのを読んだ気がして、しばし想い巡らせた。そうだっ。田中小実昌さんが『ポロポロ』『アメン父』で描いた、お父上のキリスト教信仰のありようが、似たことを云っていた。

 修証一如から一歩進めて、谷川徹三は行持道環の概念に言及する。「行」は修行、「持」は護持すなわち啓きえた心境を保つことである。
 発心・修行・悟り・涅槃には、段階があるわけではない。垣根もきっかけも区切れ目もない。速やかかつなめらかに移行している。そして悟っても修行をやめるべきではないのだから、涅槃は次なる発心へと連なる。ということはそれらの境地は円環をなして、無限に繰返しているのだ。しかも日常的に、ものすごい速度で。だからこそ修行と悟りは一如であるとされる。
 この円環運動(円環状態?)を行持道環と称ぶそうだ。

 以下の他愛ない譬喩については、谷川徹三がするはずもなく、私の馬鹿噺に過ぎぬが、つねなる円環運動であるからには、始発点も終点もありえない。山手線や大阪環状線でいずれの駅から乗車したところで、一瞬にして等しく車中の人となるわけだ。
 それでようやく解けた。禪語にある「無門」とは、私なんぞに用意された門などどこにもない、という意味ではなかった。人間だれしも、発心すればそこが門だ。どうやらさような意味だったと見える。
 わが愛用の、石田芳夫九段揮毫の扇子(ただし印刷物。東京市ヶ谷にある日本棋院会館の二階売店で買える)にては、「どこからでも入門なさい」と元本因坊である九段が初心者に向けておっしゃってくださってるわけだ。

 もうひとつ思い出した。まだテレビを観ていたころだから、十年以上も前のことだ。予備校の先生の口癖だったか、宣伝コピーだったかから、期せずして流行語が跳出したことがあった。いつ入門したらいいの?「今でしょ」。
 これだこれだ。このコピーは道元禪師から来ていたんだ、と申せば、いくらなんでも嘘である。だが世俗化して庶民の世間智にまで溶けこんだ、思想的伝統であると申し直せば、それは本当である。