一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

なんだか面白い



 真似される面白さと、真似されぬ面白さ。独自だオリジナルだと、四角四面を申す気は毛頭ないのだけれども。

 ツイッターの記事下に、棒グラフ状のアンテナマークが立って、ツイートアナリティクスなるウィンドウが開く。少し面白い。
 ほんらいの用途意図に背くのだろうが、私はもともと SNS をソーシャルツールとして活用する気が乏しい。存じあげるかたがたとの交信ツールと考えている。いわばクローズド交際圏での手抜き通信手段と考えている。それでいて、時にはチャッカリ情報収集もできる、図々しい玩具だとも考えている。
 したがってツイートアナリティクスも、呆れるほど小さい数字に終始している。文字どおりソーシャルツールとして有効活用して、ご活躍なさっているかたがたと同列に使わせていただいていてもよろしいのだろうかと、気が引けるくらいだ。

 そんな小さな数字の動きにも、傾向は表れる。つまり五と十とは違うのであり、三十と百とでは違う。千や万を相手になさるかたにとっては誤差の内であることも、私にとってははっきりとした「傾向」である。
 この一朴堂日記を、毎回ツイッターにも転載投稿してあるが、反応に傾向が表れる。当然ながら、タイトルとアイキャッチ写真の影響はある。だれが考えても、当然だろう。それよりも、である。
 些細な日常雑記(文字どおり日記)の日と、読書紹介やそれに伴う若干の所見の日とが、まだらに混じる。そこに「傾向」が表れるのが面白い。

 台所だの家事だの、散歩だの買物だのを扱った日は、注目だけはしていただける。日記を訪れて、中身まで読んでくださるかたは少ない。アイキャッチ写真に、花だの昆虫だの、焼きそばパンだの鍋釜茶碗だのをクローズアップしておくと、効果てきめんだ。
 対して読書紹介の日は、注目いただけた数がめっきり減る。が、ご注目くださったかたのほとんどが、日記にまでたどり着いてくださる。眼は引かぬが打率は高い。
 SNS は遊びであって、そこから何かを学ぼうとか勉強しようなどというかたは少ない。自分自身を省みてもうなづける。真面目でないとか、向学心に乏しいとかの問題ではない。その時さような気分ではないのだ。

 そこで思う。かつて云われた。もの心ついたころからパソコンが身近にあった世代がやって来るぞと。次には、積木遊びも砂遊びもせずにゲームに興じて育った世代がやって来るぞと。最近では、スマホが当り前で、かえってパソコンなんぞ苦手だという世代がやって来るぞと。さような世代の若者には、教育はもちろん社会経験も恋愛までも、ウェブツールが不可欠なのだと。
 本当だろうか。旧世代の思い込み、もしくは脅迫観念からくる劣等感ではないのだろうか。たしかに技術環境が整っているという条件はあるだろう。が、当の若者がさような環境のままに感じ、思考しているとは、私にはどうも思えない。遊びで用いた技術と学びの技術とでは、思考回路が異なる。だいいち気分が異なる。スマホで遊んで育った世代だから、学問にもビジネスにもスマホを活用すれば効果的だろうというのは、短絡どころか若者の思考力に対する侮辱ではないのだろうか。

 時代により与えられた技術は、次の時代によって容易に乗越えられる、否定される、見捨てられるという脅威を、深刻に感じているのは、当の若者世代だろう。GTP3 によって小説が書けるそうだ。GTP4 になると、ラジオの DJ 番組が作れてしまうそうだ。
 ローカルニュースでトレンドに挙っている話題を検索し、文章に編み原稿化する。その原稿を指定した音声データによって読み上げる。原稿中に頻出する単語から関連音楽を検索して、原稿の区切れ目に挿入するという手順らしい。
 今のところまだ、抑揚や間の取りかたに難点があるらしい。普通ならそうなんだが、この場合に限ってはこうだ、との判断や選択はたしかに難しかろう。だが面白そうではないか。システムに介入して、機械が作ってくれた原稿を一部手直しして、これを古今亭志ん生の声でやってくれとか、大塚明夫の声でやってくれとか。そうなったら、技術では太刀打ちできぬ若者たちとも、アイデアと古い記憶でもうひと勝負だ。

 冗談はさて措き、推測可能な感動は芸術の使命ではなくなる。辻褄合せは文学の仕事ではなくなる。面白いじゃないか。
 カギカッコに入った「近代芸術」が大衆化し氾濫して、ついには芸術でもなくなった代物が大手を振って銭に化けてきた時代となって久しい。「おそれながらそれは再生可能品です」といちいち突き付けて歩くのは、けっこう愉しいかもしれない。
 近代の常識は、意外なところから破けてくるかもしれない。なんだか、長生きしてみたくなってきた。