一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

語り残し


 卒業博覧会だとか。卒業してゆく学生諸君全員の作品が展示される。手に取って眺められる。壁ぎわにずらりと据えられたパイプ椅子に腰掛けて、自由に読むこともできる。
 ご本人も在校生たちも眺めるだろう。ご両親もお見えになるかもしれない。今春入学予定の生徒も、来年受験を考える高校生たちも受験相談を兼ねて、来場するかもしれない。

 文芸学科や雑誌『江古田文学』を少しでも知っていただくために、ささやかなイベントが催された。主任教授や編集長などお偉いさんがたと、学生諸君の気心につうじる若手教員がたによる公開座談会だ。そこになぜか場違いな爺さんが一人。雑誌が主催する文学賞の選考委員の一人ということらしい。
 それぞれお役目があり、お立場からのご報告やらご意見が続くなか、タガの弛んだ半ボケが脱線に次ぐ脱線の混乱噺オンパレード。いやはやとんだ恥かきだった。
 みずからを社会人と自認していたころは、いくらなんでももう少し自制的で勘案力もあったのだろうが、世間のこと世界のことのおおかたは自分と関係ない、関係しようにもできるはずがないと思い定めてからは、よけいにいけない。

 学科だろうが雑誌だろうが、運営だろうが編集制作だろうが、分別盛り働き盛りのかたがたがなさってくださればよい。老残兵は片隅の持場に着いておればよろしい。文学の言葉と日常言語との差異は奈辺にありや。それを志ある若者にどう解ってもらうか。私の関心は、それ以外のところにはない。
 で、大局的な話題にはトンチンカンとなる。はなはだ面目ない。

 催し終了後、日暮れてより会食。イタリア料理店だという。へ~え。
 学科内の歓迎歓送ほか、内輪行事を含む会のようだから、遠慮するのが筋だったが、出席者の年齢層の幅を広げるというありがたい幹事意図もあって、図々しくもお供した。
 齢だし歯もないし、多くはいただけない。が、世に聞えるイタリア料理って、どんなだろうとの興味はおおいにある。酒だってまだいくらかは飲める。


 ロースト肉を添えたサラダも、チーズや貝や野菜をスモークしたオードブルも、美味かった。海鮮パスタもけっこうだった。ムール貝の顔などじつに久しぶりに拝んだ。玩具みたいに可愛らしい帆立貝が載っていた。そこで考えこんでしまったのである。
 帆立の貝殻に、まるで模様のような線状突起が貼りついている。船底にフジツボが貼りつくように、帆立貝に海中生物が貼りついたかのようだ。フォークの先でいじってみても、剥れそうな気配はない。貝殻の一部であるかのように、ガッチリ貼りついている。なにかのマークか目印なのだろうか。まさかね。

 養殖ものもしくは半養殖ものであれば、生産性からも商品性からも、もっと大きく育てるだろうし。海中生物の付着なども予防することだろう。この小ぶりな帆立は天然ものですよと主張するための信号として、あえて目立つようにしてあるのだろうか。
 イタリア料理では通常のことなのだろうか。それともご店主かコック長さんの意図なのだろうか。ある種の美学なのだろうか。
 あるいは、めったにない天然ものを模して、かかる加工が人工的にできるものなのだろうか。さらにあるいは養殖生産地において稚貝を改める段階で、この突起あったがために、大型に養殖する候補から弾かれた稚貝なのだろうか。
 地中海料理にも帆立貝生産にもまったく基礎知識がないために、疑問は疑問を呼んで、すっかり考えこんでしまった。

 たいへんに不行儀だったけれども、いただき了えたパスタの皿から、大きさ比較のできるオードブルの皿へと貝を移して、タイミングを窺った。近い席のかたがたが他の話題で盛りあがった隙に、悪さでもするかのようにワンカットだけシャッターを切った。
 それでも、筋向うに腰掛けておられた女性の若手講師さんには、気付かれてしまった。なにもおっしゃらず、視て視ぬ振りをしてくださったけれども。
 嗤われても咎められても、むろんかまわなかったのだけれども、私は私で、反省と申そうか後悔と申そうか、ある想いが念頭をよぎっていた。
 こういう疑問や逡巡こそが、文学なんですよということを、ほんの数時間前の座談会では申しあげたかった。それを、巧いこと云い表せなかった。