一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

年々歳々



 電気料金の払込期限が毎月中旬、ガス料金が下旬だ。用紙がポストに投函されている日も、若干の誤差はあれど電気料金がほぼ十日早い。電気用紙が届いても下駄箱の上に放り出しておいて、ガス用紙が到着してから、一緒にファミマで入金することにしている。

 ご苦労さまなことに、自動引落しがご便利ですよとのご案内が毎月同封されているか、用紙のどこかに刷りこまれてある。何十年も手続きしてないということは、する気がないのだと、いい加減にお解りいただけぬものか……というのは、じつは本心ではない。
 ベルトコンベア式の自動封入機のラインでは、顧客によって同封物を替えるのは案外面倒なのである。コストもかかる。小さなビラ一点の印刷費倹約くらいでは、とうてい追いつかない。通販業界でダイレクトメールを使った商売に従事した経験から、痛いほど理解できる。同封ビラ一枚の重量が何グラム、同封印刷物一点増やすと封入費何十銭増えると、極限まで微細計算に気を遣った時期をもった身だ。
 だから拙宅受取り DM において、私に不要たること歴然の同封物があっても、無駄だなアとの感想は生じない。いや、この DM 全体が無駄だなアと思うことは、しょっちゅうあるけれども。それはリスト選定という、DM 制作とは別の工程の問題だ。

 水道料金と電話料金とは、銀行口座からの自動引落し方式で納めている。母がさようにしていたのを、変更手続きを面倒臭がって、そのままになっている。わが横着恥入るばかり。内心では、よろしくないと感じている。
 気を配っているつもりでも、自動引落し方式はコスト意識を甘くする。現に、電気・ガスに較べて、水道・電話については、私の注意力は格段に散漫だ。

 数年前のこと、東京電力からの料金通知と用紙配布を兼ねた DM が改良された。アウトソーシングとか称ぶそうだが、なぜ外注・下請けと称ばないのだろうか。「下」が蔑称だとでもいうのだろうか。無学浅薄な言葉狩り意識である。
 それはともかく、アウトナンチャラを機に、東京電力の封入技術に変更があった。以前は封筒の耳の先端に、一直線に接着剤が薄く着いて封入されていた。上部の両角には隙間ができた。そこから小指を差し入れて(カッターやペイパーナイフならなおよろしいが)、容易に開封できた。現在ではコの字型に接着剤が着いて、隙間無しの三方完全封入である。私のようなものぐさは、ええいっ面倒とばかりに、どこか一か所を引きちぎったり破いたりして開封する。

 たいした手間でもないが、開封後の封筒の姿は無残である。おそらくあまりに開封容易な封入方式では、まさかの事故も起きかねないと懸念されたのだろう。あるいは実際に事故か事件かが発生したのかもしれない。きっと熟慮あっての改良だったのだろう。
 ただいちいち刃物を使って丁寧にというような、麗しき品性を持合わせぬ私ごとき卑賤の輩にとっては、改良が余計なお世話だったというまでだ。

 そこへゆくと、東京ガスの封筒は助かる。封入時接着線の中央に赤ベタ白抜き矢印の印刷箇所があって、矢印に沿って引くと、絶妙に穿たれたミシン目構造により(実用新案だろうか?)難なく、しかもきれいに開封できる。まことに気分がよろしい。
 しかも請求金額は、電気代の十分の一である。(これは関係ないか。)
 総理大臣が戦地を訪問しようが、国政や新聞・テレビがいかなる勢力に席捲されようが、当面の痛痒を感じられる身分ではないが、年々歳々眼に見えて指先が不器用になり、日常所作が緩慢になりゆくのには、致しかたないとはいえ閉口する。

 昨年の日記においては、今日あたり桜が散り始めたなどと書いてある。今年はすでに半分ほどは散った。拙宅門前の段差箇所に、吹き溜っている。秋冬の枯葉たち同様に、花弁たちをも、一両日中に掃き集めて、穴を掘り、土に還してやらなければならない。