一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

貧乏性



 とくにコレクターというわけではないのだけれども。

 靴下を通して足の裏になにか当る。周囲にも足元にも物が積上げられて、すっかり窮屈になっているデスク下へと、苦労して身を潜らせて摘みあげてみたら、樹脂製の黒いブラシだった。昆虫の頭のように先が湾曲した、全長七センチほどの平べったいブラシだ。パナソニックのシェイバーを買うと、ビニール袋のなかにセットされているやつだ。
 何十年もの付合いになる懇意な家電屋さんで、いつものやつとばかりに、いちばん安いシェイバーを買う。毎度のことなのに、家電店の専務さんは、充電式にするか乾電池式にするかと訊ねてくださる。交互に試してみたのは二十年以上も前だ。ある時期から乾電池式と決めてある。だのにやはり、同じことを訊ねてくださる。当方も同じように注文する。ご近所付合いというものである。


 二日三日髭を剃ったら、肌との接触面になっている穴あき蓋を開けて、刃と内壁にこびり付いた剃りカスをブラシできれいにする。毎日使用しているうちに、いつの間にかモーター音は鈍くなり、剃り味も低下している。が、日々のこととて、気づかない。
 ある日突然、刃の回転が止まる。しまった無精し過ぎたと、慌てて蓋を開けてブラシで剃りカスを取り除く。やれやれ、動くようになる。が、無精ばかりが原因ではなかった。寿命が近づいたのだ。ある日、ブラシを使ったみても、再起動しなくなる。
 で、いつもの家電店へ行く。新品はこんなに気持の好いモーター音だったかと、眼の醒める思いがする。
 停止した旧機だが、家電の一種とはいえ、こんな小さな機械だ。家電店に処分のお手間を煩わせるのも気が引けて、毎月の第三木曜日、燃えないゴミの袋に放り込んでしまう。

 そこまでは好い。問題は付属の小ブラシである。この程度なら普通の家庭ゴミのうちなのは明白だが、果して本体と同時に処分してよろしいものかどうか。
 どうせ今日明日にも、同じ機種のシェイバーを買ってくるのだ。同じ箱に収まり、同じビニール袋にくるまれ、中には同じブラシが封入されてあるのだ。
 もしも私がなんらかの粗相をしでかして、小さなブラシを紛失したらどうなるか。他愛のない小さな道具だとて、この機種のこの作業専門に作られた道具だ。玄人さんによって真剣に考案されたものにちがいない。他のブラシで、たとえば古くなった剥げちょろけの歯ブラシで、あるいは綿棒や爪楊枝で、代行できるもんだろうか。できなくはあるまいが、おそらくは専用ブラシよりは性能が劣るか、勝手が悪いのではあるまいか。
 捨てる気になればいつでも捨てられる。邪魔になるほどのもんでもあるまいし、スペアとして同じビニール袋に入れておいたところで、苦にもなるまい。
 さように考えてから、はて、なん年経ったのだろうか。現在、わがシェイバーの袋には、四本のブラシが入っているのである。わが身のものぐさについて、さほどの屈辱感も反省もないために、日ごろは本数も承知していない。靴下を通して足の裏になにかが当ることでもなければ、一本姿が見えなくなったくらいでは気付くはずもない。

 めったに使わぬコルクの栓抜きやら千枚通しやらが、ふいに必要になったりして、台所の食器棚の下の引出しを引いてみようものなら、割箸の大群である。樹脂製スプーンもかなりある。
 スーパーやコンビニで弁当のサービス品の割箸や、炒飯や麻婆豆腐丼に付けてくれるスプーンを、以前は馬鹿正直に頂戴していた。今は、もったいないから、と云い添えて辞退するようになった。さような習慣となって十年は経とうから、十年以上前の割箸や樹脂スプーンたちである。
 スプーンのほうは調味料を量ったりラッキョをすくったりするのに重宝しているが、めったに折れるものでもないから、まだ当分のスペア在庫に困らない。割箸に至っては、来訪者もない拙宅にあっていつの日の在庫まであるもんだか、見当もつかない。

 さような事態に気づいて、冷蔵庫の扉を開けてみる。メインディッシュのない、月並保存食ばかりの暮しをしているから、陶磁器製の蓋物小鉢が多い。梅干、ラッキョ、ニンニク味噌漬、わさび漬、人参浅漬、ガリ、昆布か魚の佃煮、茹で小豆、イワシ缶詰の残りや出汁の残りなどなど。持上げて底を視あげてみると、錦松梅だの桃屋だのナンだのカンだの、いろいろな屋号が染付けてある。
 多くは亡母からの継承小鉢だから、この気性は完全に先代譲りである。