一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

キッチュの境地

 




  自炊暮しとはいっても、外食や弁当テイクアウトを毛嫌いしているわけではない。

 大スーパーはすべからく似ているのだろうが、サミットストアには売場の隅に立派な調理場がある。ガラス張りの面から、一画が買物客から見える。といっても水場だの、まな板工程や煮炊き工程など、肝心な部分は覗けない。そりゃあそうだろう。見えるのは、盛付けや冷ましや、出番待ちなどのスペースである。
 弁当や総菜パックの献立は豊富だし、味も申し分ない。この町の共働き夫妻や子育て多忙夫妻にとっては、なくてはならぬ心強い味方となっているにちがいない。

 値段順に申せば、次がコンビニ弁当だ。料金体系はサミットとほぼ同様か、サミットが二割高といったところか。しかし少量付合せ総菜の豊富さの問題があって、お得感はサミットに軍配が挙る。それになんといっても、本部からの配送商品と自店調理品との差は埋めがたい。
 テイクアウト弁当専門店や、韓国キンパの店や、居酒屋が副業的に商品を並べている場合など、個人商店それぞれの努力はここでは措くとして、三番目がビッグエーだ。とにかく安い。商品名が同じなら、サミットより二百円以上は安い。むろん商品名が同じというだけで、出来栄えや満足度はここでは問わない。

 なぜ問わぬのか。そこが肝心じゃねえか。お叱りはごもっともなれども、外食や買い食いについて私は、豪華であれば好いとも、逆に安ければ好いとも、思っていない。時と場合の気分と考えている。現に、サミット・ファミマ・ビッグエーいずれにおいても私は、弁当もおにぎりも買ったことがある。総菜パンや中華まんも同様だ。
 自炊暮しを標榜しながら手抜きではないかと云われそうだが、自分では手掛けぬ献立もあり、片寄りを避けるという面からも、週に一度や二度は、出来合い総菜や半完成品による補充は必要と考えている。

 という次第で、ビッグエーにては初めてだが、ハンバーグ弁当を買ってみた。怖ろしいほど安い。持帰って、冷めたままが望ましい付合せは取皿にはずし、飯とハンバーグとをも分けて、それぞれ適宜電子レンジにかけるつもりだ。
 ちなみにコンビニ弁当もさようにしている。「温めますか?」「いえ、そのままください」という応答があって、店頭では再加熱していただかずに持帰ることにしてきた。
 さて最安値のビッグエー弁当のこととて、手捏ねハンバーグが出てくるとは、初めから思っちゃいない。機械で捏ねて円筒状にした肉柱を、均一の厚さに(薄さに)切ってから成形したと明瞭に判るハンバーグが出てきた。予想どおりにつき、不満はない。
 感心なことに、大ぶりなレタスの葉に載ってるじゃないか。冷蔵庫の扉裏からマヨネーズのチューブを抜出した。だがレタスは私の老眼のなせる技だった。プラスチックのトレーに焼付け印刷されてあったのだ。咄嗟に驚き呆れ、やがて感心し、しまいには愉快になってきた。

 「~もどき」と云えば、似せて作られたまがい物の意だ。「~くづれ」と云えば、成ろうとして成れなかった半端者の意だ。現今では「キッチュ」というドイツ語が好まれているらしい。
 いずれも本来のものではないにせよ、そこになにがしかのモノがある。ところが、この弁当トレーには、レタスになり損ねたナニモノも、初めからない。いっそさっぱりと徹底したもので、いえ、レタスなんぞ意識してはおりませぬ、かような模様柄でございます、と云われれば一言もない。でも気分は出てたでございましょう? と駄目を押されれば、確かにと同意せざるをえまい。キッチュの上を行く、徹底した哄笑爆笑ともいえ、ニヒリズムともいえそうだ。

 同人雑誌に書き連ねたものを寄せ集めて最初の文集を刊行したのは、四十年近くも前だ。あとがきに、こんなことを書いた憶えがある。文芸批評とはなにかが判らぬ時代となってきた。今後ますます判らなくなってゆくことだろう。ここはいったん創作だ批評だと申さずに、「雑文」という次元に立戻って考え直さぬことには、定見は見えてこぬかもしれない。というようなことを書いた。
 お前、なにを云ってるんだかさっぱり解らんと、当時ご批判やらお叱りやらを頂戴したものだった。たしかにずいぶん生意気な申しようではあったが、正直な気持だった。
 今から振返ってなにかひと言と所望されれば、ほれ視たことか、である。そしてその間私は、紛れもなく雑文書きとして生きてきた。文芸批評なんてもんじゃないし、ましてや創作なんてもんでもない。人はこれを「文学」とすらおっしゃるまい。が、私はこれをしも文学と、ゴマメの歯ぎしりよろしく云い続けてきたのである。キッチュといえばまさしく、キッチュそのものである。

 だが遺憾ながら、修行が足りなかった。いまだ不徹底であった。そこにモノがあるとの、甘い幻想に囚われていた。あるいは、モノがあるべきだとの願望を捨て去れずにいた。モノなんぞある必要はないのだ。あるいは、ないのが本来だ。
 ビッグエーのハンバーグ弁当トレーは、その道理をいとも鮮やかに見せてくれた。一瞬は胸を衝かれたものの、やがて愉快な気持になったのだった。