一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

合せてひと坪



 陽射しはおだやかだし、陽気も申しぶんない。惜しむらくは強風だ。それどころか、時おり吹き来る突風は台風クラスだ。作業を早々に切上げる格好の口実である。
 あまりに困難が伴うようなら、すぐにやめよう。始めから腰が引けた気分で、地下足袋を履いた。

 まずは門扉に近い箇所。近ぢか植替え候補の彼岸花の隣だ。ここもドクダミコロニーである。通常の単位作業面積のおよそ半分程度か。
 一面に微小な白い円錐が散りばめられたようになっている、茎の先端にツボミが来ているのだ。いっせいに咲き揃うとじつに綺麗なものだ。が、美と経営とはおうおうにして一致しない。心を鬼にしなければならない。

 この一画には、ありし日の盆栽棚の残骸を横たえてある。ブロックの脚と板材による棚は解体容易だし腐食崩壊もしてくれる。が、鉄骨とプラスチック材によるむやみに頑丈な製品は始末に困る。
 立体だから粗大ごみなのであって、処分は有料だが、平材・棒材に解体してしまえば不燃ゴミに出せる。よぉしと思い立ち、鉄ノコを買ってきて少々挑んでみたこともあったが、私の腕をもってしては思いのほか時間がかかることが、計算上判明した。そのうち時間があったらと、いったん先延ばしにして、さてかれこれ十年は経とうか。
 定年にでもなったら、なんぞと自分に言いわけしたもんだったが、はて、とっくに定年になったはずだが。

 この一画にはまた、中程度の石や瓦片や煉瓦片などが寄せてある。根切りだの植替えだので穴を掘ったさいに、地中から出てきたものたちだ。新たに発生したブロックの欠けらも加わる。
 拙宅敷地は、もと河川敷だった。谷端川の川岸からおよそ四十メートルといったところか。わが町のメインストリートとなっているサンロードは、昭和三十年代までは川だった。暗渠となり、地中には今も、径が人の背丈ほどもある巨大コンクリート管のなかを川が流れている。東京オリンピックを目処とした首都大改造ブームのなかでの、巨きな工事のひとつだった。
 もともとの河川敷にも異物は多く混入していたろう。そのうえ緩く傾斜する河川敷を平らに宅地化するために、いずこからか持ちきたった土で盛土したのだろうが、その土がたいそう悪かったと見える。
 で、今でも拙宅敷地では、掘れども掘れども何かしら出てくる。それら土中から顔を見せたものたちと、新たに発生した崩壊ブロック片なども一緒くたにしてあるわけだ。お上の重機が入るときに、処理してもらうつもりでいる。

 

 さて通常の作業単位面積の半分程度をもう一か所。合せてひと坪、という算段だ。これまでにいく度も掘り返しては、さまざまのものを埋め戻したあたりで、土中の異物も少なく、土質も軟らかい。ドクダミの地下茎も雑作なく抜ける。
 君子蘭の大鉢がふたつあって、この鉢が破損したのを放置したために、敷石向うの新天地へと移民していった連中が元気に根付いた。こちらがアッティカであり、向うがイオニア海岸である。このアッティカ族にも、しかるべき場所へと移動してもらわねばならぬが、大仕事となりそうなので今日のところは無視する。

 能登半島の先端では、前例あまりないほどの大地震が起きたという。産業・商業さほど盛んでなく、人口密度の低い地域だったためか、数値に表れる被害が報道されることは少ないようだが、かなりの巨大地震のようだ。余震も続いているらしい。
 人口密度の低い地域ということは、高齢者や他地域へ移れぬ事情にあるかたも多いのだろう。どんなにか不安だったことだろう。海岸伝いに東へ行っても西へ行っても、県内にも隣県にも原子力発電所がいくつもある。さぞや気味悪かったことだろう。

 本州の背骨に山系が貫通しているというのは、たいしたことだ。私が鈍感だったものか、なにも感じなかった。
 強風に妨害されて、せっかく抜き取った雑草の山が崩れるだの、集めたゴミが散らばるだのと大わらわだ。なんと平穏で月並な日常であることか。