一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

コロー

コロー『ラ・フェルテ・ミロンの風景』(大原美術館蔵)

 西洋絵画に興味を抱き始めたころから、コローの画がどことなく好きだった。最近になって理由に思い当った。

 ごく鈍感な高校生だったから、ゴッホピカソを凄いと思っていた。好きなのはユトリロだった。デ・キリコジャクソン・ポロックも知らなかった。
 文学にもっとも熱心だった三十代後半は、ロートレック松本竣介のファンだった。孤独だの孤立だのという問題を、自分なりに考えていたのだろう。そろそろ坂本繁二郎とも熊谷守一とも出逢っていたころだ。
 それらの時代にも一貫して、コローの画には気持好い感じを抱いていた。

 コローの描く農場風景も田園風景も雑木林風景も、気温やら空気の清浄加減やらが、私の快感範囲にきちんと収まっているということのようだ。空気中の酸素濃度が、私にちょうど好い。ミレーが描く農場は、天候にかかわらず、コローの農場より温暖だ。
 かすかに気温が低めだが、ユトリロも快感範囲にある。ただし空気の匂いには、都会ならではのコンクリートや砂埃の香が混じる。若いとき夢中になった佐伯祐三のパリは、私の好みより気温が高い。
 モネはやや気温が高い。ピサロははっきり高い。シスレーはちょうど好い。わがロートレックは、外気を感じられる場所がそもそも嫌いだ。

 ゴーギャンは暑い。ゴッホも暑い。だがこの二人とセザンヌを加えた三人は、後のち面倒な噺となってゆく問題を堀当ててしまったようだ。
 スーラやアンリ・ルソーは、空気の動きをまったく停めてしまったらどうなるかと考えて描いていると思える。なんのきっかけから、そんなことを考えついたのだろうか。
 青の時代以降のピカソデ・キリコにいたっては、空気というものは存在しないものと前提して、描いているように感じる。
 これらの入組んだ取組みも、セザンヌゴーギャンゴッホが、途方もないものを掘り当ててしまったからではなかったろうか。

 じつは二十世紀アメリカ絵画も大好きだ。色と空間を追求したジャクソン・ポロックも、物体と情報の交錯を追求したロバート・ラウシェンバーグも、ポップ性を極大化して見せたロイ・リクテンシュタインも、観ていてわくわくする。
 けれど、気温と空気中の酸素濃度とを考えなくなって久しいとの想いは禁じえない。

 問題は、ろくに知りもせぬ美術のことなどではない。文学作品に酸素濃度が足りているかという件だ。いささか想うところないではないが、わが力量を省みれば、今さら評論文めいたものを書くのはご免だ。考え続けてさえいればそのうち日記のなかに、愚痴として切れぎれに散りばめられるときもあるかもしれないと、後ろ向き逃げ口上を思いついたところだ。
 コローは好いなぁ、なんぞとなまじ思い出してしまったがために、窮屈な気分になってしまった。