一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

幸福餃子


 間もなく午前四時だ。餃子を焼こうかと思い立った。こういうのが気まま老人の幸せというもんだろうか。

 須磨佳津江さんのお声が聞える。「NHK ラジオ深夜便」だ。二十歳代のころ、このアナウンサーが大好きだった。お伽噺を歓ぶ柄でも齢でもなかったけれども、夢の国からやって来たお姫さまがあるとすれば、たとえばこういう人ではないかとすら思っていた。
 アナウンサーの平均速度よりも心持ちゆっくりでまったりした、上品な話しかたは当時とお変りない。


 午前三時台は〔にっぽんの歌こころの歌〕だ。「昭和歌謡 往年の名歌手 松山恵子作品集」と銘打たれ、“お恵ちゃん”が唄っている。一時間弱の枠内に、知らない曲など一曲もない。歌詞を記憶してないから、一緒に唄えないだけだ。
 両親を助さん格さんみたいに両脇に引き連れた気になって、じつは両親に連れられて、浅草国際劇場へ聴きに行ったっけ。現代の舞台照明技術よりもはるかに初歩的だったのだろう、歌手の肌はなぜあんなに桃色なんだろうと不思議だった。客席にまで匂いが漂ってくるようだった。

 つねであればこの時間帯からそろそろ、今夜はどう眠ろうかと考え始める。どうせ六時間眠るのであれば、できるだけトイレに起きぬように熟睡したい。少しだけ飲むか。飲むとすればなにを? 肴にはなにを? 冷蔵庫に今あるものといえば? 空腹過ぎてもいけないが、就寝直前に炭水化物系の摂取過多はなおいけない。やめてホットミルクにでもしておくか……。

 だが今日は事情が異なる。昨日、大北君からメールが来た。先日いただいたばかりだというのに、追加で野菜をお送りくださったという。「明日到着、時間指定なし」とのことだ。ありがたいやら恐縮やらだ。
 と、ヤマト宅急便からもメールが来た。「大北様からの荷物、明日配達、時間指定なし」とのことだ。最近こういうメールが来るようになった。不在持帰り~再配達のコストが馬鹿にならぬと、先日のニュースにもあった。厳密な調査とコスト計算をしてみた結果、全荷物について予告メールの手間をかけたほうが安上りとの、研究結果が確定したのだろう。
 時間指定なしといっても、午前中に配達される公算が高い。万が一にも、深く眠り入ったりして、不在と思われてはお気の毒だ。よしっ、このまま起きていよう。宅急便を受領してから、二日分まとめて眠ればよかろう。

 さよう肚が決れば、就寝直前ではなくなるわけだから、摂取食糧の制限は緩和される。樽酒を小タンブラーで二杯、梅酒を二杯。合せて一合五勺といった程度であれば、疲れが出て睡魔に襲われることもあるまい。その程度飲めるとするならば、今の気分としては、野菜餃子かな。
 という次第で、須磨佳津江さんのお声を聴きながら、払暁の餃子を焼いているのである。翌日に仕事がないというのは、いいもんだ。社会人としての責任がないというのは、じつにいいもんだ。

 大北君からの到来品は、よく育った蕪だった。元気な青菜付きだ。似ても独特な味を出してくれるが、月並に浅漬けで食うのが好きだ。料理上手の奥様が糠漬けにするようなんじゃなくて、ごく薄くスライスして塩で水出しした後、ちょうどガリでも作るように、酒と酢とをかなり甘めに調合して浅漬けにする。これが美味い。
 株の青菜は、大根その他の菜より繊維が勁くて頑丈だから、下ごしらえにひと手間かけねばならないが、考えるのは明日の仕事だ。