一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

お待ちどう


 芋蔓式にと申すべきか、数珠繋ぎにと申すべきか、それとも玉突きのようにと申すべきか、用事というものは片づけようとすると次つぎに発生するものだ。

 あれを切らしたから、次の買物で補充せねばとその時は思うけれども、少し時間が経つと忘れる。なんか買うべきだったんだが、さてなんだったろうかと、思い出せない。
 いつのころからか、マッチ箱大に小さく切ったメモ用紙に、思い立ったものをボールペンでそのつど書き置いて、煙草の箱のフィルムの内側に挟んでおく習慣となった。買い物リストと、自分では称んでいる。
 リストは横書きの左右二段で、左半分はビッグエー、右上がサミットストア、右下が川口青果店、めったに発生しないダイソーとマツキヨが右中ほどである。

 メモが賑やかになってきた。そろそろ買出し日和だ。さよう思って財布を確認すると、千円札一枚しか入ってない。小銭入れのがま口なんぞ高が知れている。つまり手元の所持金が底を突いたのだ。
 生活費を引出しに銀行 ATM へ行かねばならない。ところが通帳を開くと、残金があまりない。ということは、大財布からしかるべき金額を銀行へ移さねばならない。

 年金受取だの、原稿料や喋り賃といったギャラ類だの、疫病流行下での貧民助成金だのの受取り窓口は、わがメインバンクたる A 信用金庫に指定してある。日常的な生活費の小出しは、B 銀行を使っている。一部公共料金の引落しも B 銀行だ。
 かつては渡世のなりゆきで、いくつもの銀行口座があったが、だいぶ整理して、動いているのはこのふた口座となった。

 B 銀行との付合いは長い。わが会社員時代は、月給袋なるものが急速に姿を消して、給料は口座振込みが常識となりゆく時代だった。零細企業とはいえ時代に遅れじとばかり右へ倣えで、勤務先の最寄り駅前の B 銀行へ強制的に口座を開設させられた。
 数年後、不愉快なことがあってその職場を退職してしまったが、口座はあくまでも個人の持物として、取上げられたりも取引停止にもならなかったから、今さら新規手続きも面倒なので、そのまま使い続けた。後年、銀行の勝手な都合で名前が二度も変ったが、付合い続けている。
 ただし私の仕事上の便宜から、池袋支店・吉祥寺支店・江古田支店およびわが町の ATM に出入りしてきた。口座の所在は代々木上原支店である。同支店には、もう三十八年も足を運んでいない。それどころか代々木上原駅になど、退職以後一度も下車した記憶がない。当時高架線下や駅周辺は開発予定地だらけだったから、今では様相一変していることだろう。行ってみようものなら、迷子になるのではないだろうか。

 さて、A 信用金庫の預金からある程度まとまった金額を引出して、B 銀行へ移さねばならない。まったく私一個の気分に過ぎないが、口座間の電子送金というものが昔から嫌いだ。額面だけが移動するのであって、金が移動するわけではないじゃないかと思えてしかたない。金というものは、さようなものではない。
 A 信用金庫の ATM から限度いっぱいの五十万円をキャッシュで引出し、信用金庫の封筒に入れ、鞄の底に納める。B 銀行の ATM へ運んで入金する。あまりに時代錯誤と嗤われようけれども、つましき少額生活者にとっての、金というものに対する精一杯の敬意だと思っている。金額への有難味の噛締めだと信じている。
 で今回も、五十万円を移した。すると B 銀行の AIM から注文があった。通帳が一杯になったから、新通帳を作って繰越しせよと。どこかの支店窓口へ参上してもよろしいのだろうが、ATM 機にても発行可能だ。ただし数分の時間がかかる。幸い午前の空いている時間帯だったので、機械発行希望の画面タッチした。

 と、なんと間が悪いことに、偶然用足しに見えたお客さんが重なって、見る間に店の前に数人の行列ができてしまった。店内の機械は二台。もう一台には私と同年配とおぼしきご婦人がへばり付いて、なにが問題なんだか最前から「もう一度、手続きし直してください」と、機械からなん度も注文されている。
 私のほうの手続きは順調だ。ただし時間がかかっている。その間手をこまねいて立ち尽している恰好だ。行列者からは、いかように見えているだろうか。機械はチリチリツーカシャ、チリチリツーカシャと音をたて続けている。この音が行列者の耳に届いていればよろしいがと、体を開いて音波を妨害しない姿勢をとった。

 ようやく新通帳が仕上って出てきた。さっそくその通帳を使って、引出し用件をふたつ手続きする。一件は通常の生活費補充で、五万円を引出す。日常の財布には五万円以上を入れないことにしてある。もう一件は準備金だ。近ぢか植木屋の親方に入っていただくつもりなので、ある程度の支度はしておかねばならない。私の暮しにおいては、まとまった金額である。
 だったら最初から、五十万円から生活費と準備金とを差引いた額を入金すればよかろうとお叱りを受けそうだが、そういうものではない。用途と過程とが通帳にはっきり残るという点が大切なのだ。繰返すが、それが金に対する敬意というものである。

 用件は無事に済んだ。店を出しなに「お待ちどうさまでした」と、行列にひと声おかけした。三人の行列者は一人として、お声を発しなかった。二人は聞えなかったような無表情、一人はふいを衝かれたかのようにキョトンとなさった。
 私の日常には、行列のできる店に並ぶ経験はほとんどない。ご近所の人気ベーカリーと信用金庫窓口と、たまさか今日のような ATM くらいのものだ。一時間も並んでラーメンにありつくなんぞとは規模が異なる。それでもついつい後続のかたとの擦違いには「お待ちどうさま」となる。べつに先さまからの返事を期待したひと言ではないけれども、近年、先さまから声が返ってくることはほとんどなくなった。