一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

駅前旧道



 駅のすぐ前に神社と寺院がある。全国でも屈指の、最寄り駅に近い寺社だそうだ。申すまでもなく順序は逆で、境内の前に駅を開設してしまったのである。

 大鳥居前に駅ができた経緯を誌した石碑が、神社の境内に建てられてある。
 ―― わが村は武蔵野鉄道にとっての要衝地にあたる。鉄道開設にあたっては、神社前に駅を開設してはと、有志からの発議があった。大正三年のことだ。そのときは時期尚早との声多くして実現にいたらず、いったん沙汰やみとなった。
 ―― その後なん年かして、会社のほうにも電化の企画があり(騒音や煙害の改良か?)並木 A さん、並木 B さんが会社の説に耳を傾けてみてはいかがかと再発議。田島 A さんに計り、該当する土地の地主さんがたや関係者に根回しして、土地の提供と応分の寄付とを説きまわった。時の村長鴨下 A さん、鴨下 B さん、並木 C さんに、加えて前記の三名が発起人となって、諸方の協力を願い回った。
 ―― かくして駅開設のための用地、四百十三坪四合三勺の手当てがつき、時に大正十二年十二月一日、駅建設は竣工の日を迎えるに至った。
 ―― 日常生活の交通の便は申すに及ばず、地元産業の振興にも文化の開発にも役立つに相違なく、おおいに期待して待つところである。いろいろあった経緯をここに誌して記念とする。大正十四年五月、新井某

 品川駅は品川区にはない。旧品川宿からも近くはない。また省線(今の山手線)は浅草を避けてある。鉄道なんぞという、やかましく物騒なもんが由緒あるわが地元に来るのはご免だという意見は、珍しくはなかったろう。
 それらの例より少々時代は下るが、わが町のわが駅周辺にも、旧時代の空気と新時代の息吹との葛藤があったろうことは、想像に難くない。また大震災を跨いだ大工事だったからには、途中に何度も難所を越えねばならなかったことだろう。境内に石碑を建立したいとの志も、府内復興計画の意気込みが横溢した時期における気概の一端だったのでもあろうか。

 神社の大鳥居よりもっと駅に近い、ホームからも見える不動尊の前には、道に面して地蔵石像が立っている。道標を兼ねていて、光背には「北板橋道、南堀之内道」と彫ってある。寛政年間の彫りである。つまり中山道から甲州街道への抜け道だったわけだ。
 神社前から地蔵尊の前を通る道は、現在では鉄道に行く手を阻まれるかのように、一方通行で左折している。が、以前は正面に大踏切があって、線路の南側へと直進できた。私はその踏切を渡って小学校へと通学した。直進道はほどなくダラダラッとのぼって、山手通りに沿うように突き当たる。高速道路における進入道路から本線への合流地点と同じ恰好だ。

 合流地点に立って筋向うを眺めると、路地が口を開けている。その路地を行くと、ほどなく目白通りにぶつかる。便利な道だが、便利過ぎて通行制限を受けている。つまりこうだ。山手通りと目白通りとが、つい眼と鼻の先で大交差点を形成している。その交差点を直角とした三角定規の斜線が、この路地となっているわけだ。
 路地を抜けきって目白通りの向うはと眺めると、そこにも道は続いていて、今度は聖母病院の前の急坂を落合方面へとくだってゆく。つまり青梅街道へと通じ、もっと行けば甲州街道だ。
 お地蔵さまのおっしゃるとおり、北は板橋方面から南下して杉並堀の内つまり甲州街道方面へと抜ける旧道が、この地で役割を果していたのだろう。板橋といえば、江戸を発って中山道最初の宿場だ。

 「兄ィ、板橋宿が見えたぜ。江戸も近えや。どうしたい、浮かねえ顔して」
 「あそこぁ鬼門だ、ちょいと逢いたくねえ女があるんだ」
 「またかい。じゃこうしよう。甲州街道方面へ回り道して、角筈を抜けて内藤新宿の大木戸から江戸へ入ろうじゃねえか。そっちにゃ、わけありの飯盛り女も、まさかあるめえ」
 「済まねえが、そうしてくれるかい。一杯おごるぜ」
 そんな弥次喜多もどきが、あったかもしれない。

 落語に「堀の内」という、けた違いな慌てん坊の噺がある。
 「おまいさんの気性はなんとかならないもんかねえ。信心でもして、神様になんとかしておもらいな」
 「よし決めた。お稲荷さんへ行ってくる」
 「商売繁盛をお願いして、どうすんだよ馬鹿だねぇ。堀の内のお祖師様でも拝んできな」
 「てえんで出てきちゃみたが、だいぶ来たねどうも。行き過ぎたんじゃねえかな。このへんで曲ってみるか。あれよっと。変だな、寺があったにゃあったが、なになに金剛院だって。いけね、ここは日蓮さまじゃなくてお大師さまだってよ」

 古くから人が暮していたからには、道はあった。役割を果していた。車用の広い舗装道路や電車用の鉄道はずっと後だ。速度と重量を重要視するからには直進性を旨とする。旧道の道筋などに考慮することなく、地図上にマジックインキで黒ぐろと太線を引いた。だからといって、淡い細線の道筋が完全になくなってしまったわけではない。
 お祖師さま詣での男が迷子になって通った可能性だってなくはない道を、今は私が買物袋を肩から提げて歩いているかと想像すれば、愉しくないこともない。