一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

天つゆ



 サミットストア謹製、ミニ天丼。513キロカロリー

 行きつ戻りつ下手な考えに耽っているうちに、いけねぇ、ラジオ体操の時間になっちまった。気づけばさすがに疲れている。テーブルに突っ伏してちょいと仮眠。と思ったらかなりの不規則睡眠。醒めてみたら、どうやら雨はやんでいるらしい。
 ラジオからは武内陶子さんの声が聞えてくる。正午を回ってるってことか。ゲストを迎えて、フォークソング噺で盛上っている。ギターを奏でながら喋ったり鼻歌を唄ったり。抑揚に関西語訛りのある、たいそうお喋り上手なゲストだ。高石ともやの影響を受けただの、吉田拓郎がお手本だっただのとおっしゃる。誰だろう?
 陶子さんが「ローリーさん」と呼びかけている。ローリー寺西か、あの金髪のロックンローラーだったかフォークシンガーだったか。まだテレビを観ていたころ、たしかに彼は、コメディアンそこのけの話術の持主だった。
 陶子さんの問いかけをスッポカシながら、自分勝手に喋る。平気で物忘れする。恥かしい瞬間をさらけ出してもへっちゃらだ。たしか私より干支でひと回り以上も齢下でいらっしゃるだろうが、好い感じの年寄りになりつつあられるようだ。

 陽のあるうちに頭が冴えているのも珍しいから買物にでも。一昨日も買物に出た。牛乳、納豆、玉子など、切らしてはならぬものだけは買い揃えた。買物メモの記載があまりに多かったので、いっとき切らしたところで差支えないようなものは、後回しにした。今日それらを補充してしまおう。
 用が足りて、ふと総菜や弁当のコーナーに眼が行った。べつだん買うつもりもなかったが、これも眼の保養かと、ひと巡りした。そこで眼に着いてしまったのが「ミニ天丼」だった。

 先ごろ到来物の春菊や絹さやがふんだんにあったので、じつに久かたぶりに天ぷら(のごときもの)を揚げた。大好物だが、日ごろ自分では買わぬ野菜だ。贅沢にも、四日間で三度も揚げた。
 ところで、天つゆだの蕎麦つゆだの、三杯酢だの酢味噌だのと、つねにヤマ勘テキトー主義で押し通しちゃいるが、その味で本当によろしいのだろうか。自分一個の味覚に合えばよろしいとしているうちに、わずかづつ世間常識からズレてきているということはないのだろうか。サミットストアの弁当売場に立って、しばし考えこんでしまったのである。
 で、つい「ミニ天丼」に手が伸びてしまった。ご婦人が軽いランチにと考えるような可愛らしい天丼で、年寄りにはちょうど好い。

 結果は、商売人がなさる工夫は素人には参考にならぬとの、至極当然な結論を改めて得ることとなった。
 天ぷら専門店か街の食堂かで天丼を食すのであれば、揚げたての天ぷらをサッと天つゆにくぐらせて熱あつの白飯に載せる。あるいは天ぷらの上から適量の天つゆを振りまくように掛ける。いったん揚げ衣に触れた天つゆが白飯に浸みて、例えようもない美味なる飯となる。それがよろしいのだろう。素人もまた、それを真似たやりかたでよろしいのだろう。
 だが弁当は違う。作ってから食すまでに時間が空く。その間に天つゆはすべて、天ぷらを通って(というか離れて)白飯に浸みてしまうだろう。天ぷらは乾いてしまうだろう。一度天つゆが通ったあげくに乾いた天ぷらの衣というものが、いかようなことにとあいなるものか、想像したくもない。いや、そういうのが俺は好きなんだとおっしゃる愛好家にも出逢ったことはあるが、まあご免こうむりたいところだ。

 弁当化された天丼の天つゆ(掛けつゆ)にはトロみがつけてあり、衣に絡み着いているから、冷めても時が経っても、流れ去ってゆかない。そうなると天つゆの浸みた白飯が好きとおっしゃるお客さまにはいかに対処するか。数多くの実験および研究をかさねて、トロみ天つゆのなん割が天ぷらに残りなん割が飯に浸みるかを割出したか、さもなければトロみ天つゆと飯浸み天つゆとを二度掛けしたかである。
 いずれにしても、天ぷら専門商売人の天つゆと弁当商売人の天つゆとは、けっして同じ原理に支えられてはいない。世の中を知るかたには常識かもしれぬことが、ようやく自力で判ったと、いささか気を好くしたのだった。


 というのもその直前に、やれやれまたかという気分にさせられていたからだ。ラッキョウとニンニクの味噌漬けとを買ったばかりだった。よく育った材料を使った間違いのない商品で、わが食卓の脇役チョイ役として、年間通して出番のある連中である。
 「よく育った材料」と申すのは半分皮肉を込めてある。パッケージの封入重量は変らない。値段も変らない。ただ気づかれぬほどだが一粒がかすかに大ぶりになってきている。こんなもんは、二分の一個づつ食べたりはしない。一個単位で口へ放り込む。と、次回の買物までの日数が短くなる寸法だ。