一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

羞恥


 ちょいと眼を離したすきに、父の姿が見えなくなった。またかい。探す気も湧いてこなかった。探さなくてもよろしいのですかと、声を掛けてくれる人があった。気にしなかった。父はその日、帰ってこなかった……という夢を観た。

 徘徊が始まったころは血相を変えて近所を探して回ったものだ。たいていは十字路の一画にぼんやり立ち尽しているか、かつての散歩道のどこかを歩いていた。児童公園のベンチに腰かけていたこともある。
 無表情でうつろな眼差しに見えたが、本人にしてみれば、なにかを考えるか思い出すかしていたのだろう。でなければ、ベンチに腰をおろすはずがない。
 極端なご近所迷惑になることは少ない。門前の定位置に私が出しておいたゴミ袋を、俺が持って行ってやったと云って、十字路の中央に置いてきたときには慌てたが、さようなことはめったにない。たいていはどこかを歩いているか、どこかに立ち尽してボーッとしているかだった……これらは夢ではない。

 夢の中では、翌日になっても、私にはたいして気掛りでもなかった。落着いている場合ではない、なんとかしなければ……。やいのやいのと私を叱りつける人たちがあった。あれはどういう人たちだたのだろうか。その後、父は帰宅したのだろうが、さていかなる結果だったのかが思い出せない。
 じつに奇妙な夢だ。一昨年が父の十三回忌だった。他界後なん年も、父が夢に出てくることなどなかった。母も同様だ。死んだ両親が夢に登場するなんぞという場面は、ありゃ作り噺か、小説の中だけだったかと思った。登場するようになったのは、七八年か十年近く経ってからだ。それもごくたまにだ。強い印象を残して、当方の暮しに影響するような場面はなかった。徘徊する父が戻らなかった夢は、今回が初めてである。

 デイサービスの送迎車にに父を託した朝、喫茶店でひと息入れていると、隣のボックスにお一人だったご婦人が話しかけてこられた。
 「介護というものはですね、どんなに懸命に務めたって、死なれてみると、後悔ばかりが残るものだそうですよ」
 あなたもせいぜい頑張ってください、という意味合いだったが、ふぅんそんなもんですかねぇと、その時はそんな感想だった。

 父の介護にも母の看病にも、さしたる後悔はなかった。不足や不行届きを数えあげればきりがない。だがすべからく私の力量に余ることばかりだ。後知恵役に立たず、後悔先に立たずである。親不孝とは承知しつつも、自分を責める気持は起きなかった。
 ところが徘徊する父を探そうともせぬ息子が、夢に出てきた。考えこまされた。

 辛かった記憶や苦しかった記憶は、どんどん薄れてゆく。愉しかった記憶や誇らしかった記憶も同様だ。忘れ果てたわけではない。きっかけさえあれば、もしくは指摘されれば、それについて詳しく申せば云々と、妙な細部までが蘇る。ただ痛切なる想いだの天にも昇る心地だのを伴ってはいない。かつての急峻な山岳や千仞の谷が、なだらかな丘や窪地と化した感じだ。
 ところが恥かしかった記憶だけは薄れない。ほかが色褪せたぶんだけ、むしろ色濃く記憶されてある。今想い返しても赤面のいたりといった場面がふいに蘇ったりしようものなら、電車内だろうが台所作業のさなかだろうが、ワッと声を挙げそうになる。
 両親にまつわる記憶なんぞというものも、喜怒哀楽の頂底は鈍麻して、羞恥屈辱のおりふしばかりが露呈してくるという、心理メカニズムの一環にあるのだろうか。