一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

朝食の方角

 本日も完食。あたりまえだ、食べるものだけ、食べる分だけ作っているんだから。

 スタインベックに『朝めし』Breakfast という短篇がある。新潮文庫版(大久保康夫訳)では、四ページ半しかない。あまりに短く、物語も呆気ない。しかし暗示的表現が巧みで、象徴性にも富み、批評家や研究者から注目されることが多い短篇のひとつだ。

 とある朝の出来事が、旅人の視点から語られる。東の空がうっすら白み始め、山やまの稜線が輝いてきた。中天から西はまだ夜の空だ。行く手にテントが見える。そばでは錆びついたストーブが赤あかと炎を噴出している。それをカマドにして若い女がどうやら朝食の支度をしている。彼女の胸では括りつけられた赤ん坊が、乳房を咥えたままでいる。旅人は近づいて、火に当らせてもらう。
 テントの中から老人と若者とが出てきて、そっくりな大あくびをする。二人は真新しい厚手木綿の上下を着込んでいる。
 「おはよう」「お邪魔してるよ、おはよう」「かまわんさ、おはよう」

 「あんたも棉摘みかね」「いや、そういうわけじゃない」
 「俺たちは、ここでもう十二日間も働いた」
 「それで二人とも、新しい服を買ったんだから……」初めて女が口を利いた。
 お揃いの厚手木綿の上下と真鍮のボタンが、まぶしいように輝いて見える。
 (大久保訳では「てんじく木綿」とされている。モスリンということだろうが、現代であればデニムと意訳しても、さほど間違いではあるまい。はっきり別物だが。)

 「朝めしは済んだかね」「いや、まだだ」「だったら一緒に座らんかね」
 若い妻はきびきびと働き、ジュウジュウと脂の焼ける音をたてるベーコンを出してきた。カマドの蓋を開けて、茶色く色づいた焼きたてのパンをいくつも取出した。
 ベーコンから鍋にしたたり落ちた脂を器に移して出し、パンに塗りつけて食べる。珈琲は熱く、顔がゆがむほど苦い。が、美味い。
 「こいつぁ美味えや」「あぁ最高だ」「俺たちはもう十二日間も、この美味えめしを食ってんだ」三人の男たちはお代りした。やがて粉が溜った珈琲の飲み残しを地面に撒いて、男たちは腰を揚げた。
 「さて行くか、今日も仕事だ。あんたどうするね、棉摘み仕事をする気があるなら、口を利いてやろうか」「いやせっかくだが、行かなきゃならぬ所があって。えらくご馳走になっちまった」「なんの、よく寄ってくださった」
 老人と息子は出掛けた。その方角に棉花畑があるのだろう。旅人も出立した。

 たったそれだけの噺である。これのどこが傑作短篇小説なのだろうか。
 旅人にとってこれは過去の回想譚で、思い出すたびに愉しく幸せな気分になる記憶だと、一篇の冒頭にある。また末尾には、この朝の光景には「ある偉大なる美の要素があった」としてある。
 余計なことは考えない。他人に悪意も抱かない。ひたすら働く。成果が出て新しい服が買えたら、無邪気に悦ぶ。子が産れた。一家で食う朝めしは美味い。おまけにふいの客人が悦んでくれれば、なおのこと美味い。
 アメリカ史には物騒な暗黒面も多かった。だがこの朝の光景には、アメリカ建国理念のもっとも美しい部分があったと、スタインベックは云っているのだろう。すでにスタインベックの時代には、その美しさがお伽噺のように感じられたのだろう。

 ところで私には、この旅人がいずこから来ていずこへと出立していったものかは、読取れない。東の山だの西の空だのと書かれちゃあるが、旅人がやって来て去って行った方角を明示した描写は、作中にはない。どう探してみたところで、ない。
 だがアメリカ人読者には判るそうだ。考えるまでもなく一目瞭然、それ以外には考えられぬそうだ。旅人は東から山を越えてやって来て、西へと旅発っていったのである。西への夢。西部開拓史の美学は、アメリカ人の遺伝子レベルにまで浸透した美意識だとすら思えてくる。