一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

開拓者

 ジョン・フォード監督『太陽は光り輝く』より、無断で切取らせていただきました。

 サリーナス渓谷は、東のギャビラン山脈と西のサンタ・ルシアス山脈に挟まれた、いわば南北に細長い盆地である。サンフランシスコよりは南、ロサンゼルスよりは北で、いわばカリフォルニア州の中央付近にあたる。スタインベックの故郷であり、重要な作品の舞台となっている。
 父は働きづめに働いてこの地に牧場を持った、世間知に富む頑固者だ。母はなんにでも細やかに気がつく、心優しき働き者だ。一人息子のジョディ―少年は十歳になる。もう一人家族同様なのが、長年牧場仕事に従事するビリー・バックで、馬の世話にかけちゃあ近在で彼に敵う者はない。
 私の世代の日本人であれば、「ララミー牧場」が思い当る。少々お若い世代であれば、「大草原の小さな家」だろうか。ずっと上の世代であれば、そこへひょっこりと、シェーンがやって来たりするかもしれない。

 ある日、久しぶりに祖父から手紙が来て、明日訪ねてくるという。母の父親だ。離れた町に独りで暮している。『開拓者』The Leader of the People(題名は西川正身訳)の噺である。確かこれまでに二度、この作品については書いた。今日が三度目だ
 祖父は若き日、幌馬車隊のリーダーだった。新天地開拓を夢見る者や、事業か商売を企てる者や、金鉱を掘り当てて一攫千金を目論む者や、なにごとかから逃げてきた者や、追いかける者や、じつに雑多な人びとを束ねて西へと率いて来た。気配り怠らずに人心を掌握し、知恵を発揮して進路を考案し、襲い来るならず者や異民族を追払うための闘いに明け暮れた、誇り高き英雄だった。(つまりジョン・ウェインだね。)
 今ではすっかり老いた。想念中にあるのは過去の栄光ばかり。悪気はないが、人の顔を視れば同じ噺ばかりする。周囲のだれもがうんざりしている。そのことを祖父は、なかなか解ろうとしない。

 「えぇっ、来るってのか。この忙しいときに」
 「あなた、そう云わずに、優しくしてやってくださいな。あの人にはもう、あれしかないんですから。老いさき長いことでもあるまいでしょうに」
 「いや、邪険にはしない。しやしないがねぇ……」
 夫婦の会話を耳にしたビリー・バックも、苦笑している。
 だがジョティー少年は、この祖父のことが嫌いではない。東の丘のてっぺんまで迎えに出る。そこからはサリーナスの町が遠くに視渡せた。
 「おぉジョディ―か、また背丈が伸びたようじゃないか」
 「うんお祖父さん、馬の世話だって、自分でできるんだから」

 夕食を了えた居間で、一同暖炉を囲む。
 「ならず者の襲撃に応戦するために、幌馬車隊に銃眼つきの鉄板を積んだ噺は、もうしたかなぁ」
 「十回は伺いましたよ、お義父さん」
 母は視たこともない恐い眼で、父を睨みつけた。今日も一日重労働だったビリー・バックは、かたわらであくびを噛殺している。
 「その噺、好きだなあ。お祖父さん、もう一度、聴かせてよ」

 その昔、彼らは幾多の苦難を潜り抜け、辛抱に辛抱を重ねたあげくに、ギャビラン山脈を越えてサリーナスの地へやって来た。勇者たちはさらにサンタ・ルシアス山脈にも挑んでいった。そしてついに……太平洋を眼の前にしてしまった。幌馬車隊はそれより先へは進めなかった。彼らの夢も、野心も、終着点を迎えてしまった。
 さような経験はたしかに歴史上の一事実ではあろうが、今日だれの胸を打つこともありえない。

 

 現在、サンタ・ルシアス山脈のふもと一帯は、ぶどうの巨大生産農場にして、アメリカワインの一大生産地である。そこから東のかたを眺めれば、サリーナス渓谷を挟んでギャビラン山脈を望めるという。行ってみたことはないけれども。

 アメリカ人がやがてハワイを併合しに行ったのも、ヴェトナムに派兵したのも、彼らの胸中にくすぶっていた西への夢の残滓がさせたとする、穿った説を耳にしたことがあるが、真偽のほども実際の経緯についても、まったく知らない。
 それよりも、開拓者の末路だの夢の終焉だのということが、わが近代文学を考えるうえで、またわが身一個の処しかたを考えるうえですら、おおいに参考になりそうな気がして、この短篇小説がしばしば記憶によみがえるのである。