一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

今できる仕事



 今もって自分にでもできる仕事は、世の中に残っているのだろうか。まったくないかもしれない。

 夜が明けても雨はやまなかった。夕方となった今もまだ降っている。だが正午前後から一時間あまり、雨はあがっていた。どこで待機しておられたのだろうか。または視張っておられたのだろうか。わずかの晴れ間に、児童公園を掃き清めておられる作業員さんがあった。
 モーター音が聞えた。ひと抱えもある送風機で、落葉や紙くずや小さなゴミなどを、片隅へと吹き寄せる。それを箒と大ぶりな塵取りで掃き集める。始めから箒なり熊手なりを用いるより、このほうが捗るのだろう。

 近年は、煙草の吸殻や紙くずのポイ捨てなどは、ほとんど見当らない。ベンチのあたりに、飲料の空缶だのペットボトルが置き放されているのは、ごくたまに視かける。酔漢の甘えによるものだろうか。それとも無軌道に振舞うことがカッコイイと感じられる齢ごろの、いわばネット用語に云う「バカッター」の仕業だろうか。
 たまにしか視かけられぬ例外的ゴミに過ぎないから、ご多分に漏れずこの児童公園にもゴミ箱クズ籠の類は設置されてない。
 公園なり往来なり、公共の場所にゴミ箱クズ籠が見当らないのは、日本の特色だということだ。コンビニの前にはある。スーパーに入店してすぐのあたりにもある。いずれも家庭ゴミの持込みはご法度だ。巨きなマンションの玄関脇にもある。当マンションの住人専用と断り書きがしてある。

 ユーチューブの「日本スゴイネ」動画や、外国人ユーチューバーによる「日本大好き」動画では、清潔な都市・親切な国民と、歯の浮くようなヨイショが山をなす。夜更けても女性が一人歩きできる治安の良さだの、置き忘れた財布やスマホが手着かずで帰ってくる善良な国民だのと、いやはや尋常でない持上げようである。
 さような日本をせいぜい享受・満喫していただくのはけっこうだが、それらはたかだか昨日今日の日本に過ぎない。苦しいだの不自由だのと不平を鳴らしながらも、大半の国民がとりあえずは生命の危機を忘れて生きられるようになってからの、かりそめの風俗、付け焼刃の公共性に過ぎない。ひとたび危急存亡の局面に直面し、同胞あい食む事態ともなれば、どんな利己性や厚顔無恥ぶりを露呈する国民かを、私は知っている。いや多くの国民が知っていながら、さような事態とならずに済んでいる現在に安堵しているに過ぎなかろう。

 いかに国力に翳りが見えようとも、国民の威勢が削がれようとも、最低限の暮しでよろしいから着実に生きていられるためには、いかにすべきか。若いころからわが身一個の命題だった。
 国家試験を通ったような特技資格もない。投資や蓄財の知識も意欲もない。車の運転すらできない。それで営業だ、広告だ、出版だと騒いでいたのだから、ずいぶん無茶で不自由な生きかただった。この先どうなるだろうかとの不安が去ったことはなかった。
 今でも考える。一旦緩急あって日々の糧はその日のうちに購わねばならぬ身となったあかつきには、自分にもできる仕事は世の中にどれほど残っているだろうかと。

 沖縄県と九州南西部はすでに梅雨入りしていた。今日新たに、九州北部、中国四国、近畿、東海まで、梅雨入り宣言が発せられたという。つまり名古屋までは梅雨がやって来たということだ。東京も一両日のうちなのだろう。例年より一週間も早い、五月中の入梅は何年ぶりというような記録だそうだ。
 しばらくの間は気づかれまいが、ようやく空が明るくなって待ちに待った外遊びに来園した児童たちが、ブランコや滑り台の周囲や、砂場の中までが、妙に綺麗になっていると気づくだろうか。とうてい気づくまい。引率のご父兄や保育園の保母さんがたは、ともすると気づかれるかもしれない。
 もとより気づかれる気づかれないの問題ではない。雨の合間の彼の作業は、間違いなく人さまのお役に立っている。羨ましい気がする。