一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

健康食


 またも学友大北君から、ご丹精の収穫物を頂戴した。感謝々々しきりだ。

 過日、のらぼう菜(菜の花に似る)と春菊と絹さやと菜付きの蕪とをいただいたばかりだ。春菊は一度胡麻和えに、絹さやは一度椀種にしたが、両方ともほとんどは天ぷらに揚げて豪勢にいただいた。春菊天というものが、ことのほか大好物だ。のらぼう菜はすべてお浸しにした。蕪菜もお浸しにした。蕪本体は薄切りにして浅漬けにした。少しづつ愉しみにいただき、いま食べ切ろうとするところだ。
 そこへド~ンと、重量感あるダンボール箱。じゃが芋と玉ねぎ、マルチタレント野菜のツートップである。

 当「はてなブログ」には、昨年の今日、一昨年の今日、お前はかようなことを書いているぞと脅しかけてくるような機能が備わっていて、すっかり忘れていたことや忘れたいことどもを無理矢理思い出させる仕掛けがある。ついつい眼を惹かれる。
 奇しくも昨年五月三十一日の日記には、大北君から玉ねぎと菜付きの蕪をいただいたと記してある。日付や前後関係の記憶なんぞまったくないが、季節や畑や作物は嘘をつかぬということだろうか。
 蕪は薄切りにして浅漬けにしたいと書いてある。蕪菜はいろいろにいただけるので、ひとまず塩茹でして小分け冷凍しようかなどと書いてある。月並で無難な私の好みや着想には、まったく進歩がないということだろうか。

 大北君からは、送り状ならぬ送りメールも頂戴していて、玉ねぎについては今朝収穫した新鮮このうえなきものゆえ、オニオンスライスなど、なるべく生に近い食しかたをすれば甘味が格別だと、ご教示を受けた。

 サイズ立派な玉葱を二等分する。片方の半分(つまり一個の四分の一)はスライサーで、もう半分は包丁でスライスして、冷水に浸ける。厚みを均一にせぬためだ。歯応えや味を複雑多彩にしたい。
 酢味噌を調合する。砂糖を加えて甘口の酢味噌にする。水にさらしてあった薄切り玉ねぎをよく絞って水切りし、酢味噌ソースで和えるわけだ。早い噺がぬた風である。紫蘇フリカケを加えて、変化味とした。
 あれこれソースを工夫してみる前に、まず私流定番の味で一回試してみようというわけだ。

 あと二分の一個は、微塵切りにする。大椀一杯ほどの山となる。包丁を使いながら眼が痛くなる玉ねぎにお眼にかかるのは、久しぶりだ。
 ウインナ一本と煮物材の残りの竹輪を二分の一本を、同じく微塵切りにしておく。小分け冷凍飯一個を解凍する。油に味を付けるためのショウガ薄切り二枚をごく細かに刻んでおく。それに玉子一個。玉ねぎたっぷり炒飯の材料が整った。あとは愛用の中華鍋と柄長玉杓子の登場である。

 長ネギであれば生使いできるが、玉ねぎなら油通しとならざるをえまい。油を十分に熱したらまずショウガを、次いで微塵玉ねぎを投入。料理番組の先生がおっしゃる玉ねぎがシンナリしてきたら、ウインナと竹輪の微塵を投入して、いったん鍋内温度を落着かせる。これで玉ねぎは焦げない。これまた料理番組の先生がおっしゃる玉ねぎが半透明になってきたら、いったん油切りにあける。
 油を薄く引きなおして、溶き玉子を投入。玉子を溶いた小鉢の内側に着いた卵黄成分をわずかの水で洗うようにして、この水も鍋に投じてよい。余分な油は玉子が吸ってくれる。解凍した白飯を投入して、玉杓子で飯をほぐしながら玉子にまぶす。ここで塩ひと摘み。片寄らぬように高い位置から振る。入れ過ぎは厳禁だ。

 飯粒の表面に玉子なり油なりが回ったら、油切りの具材を再投入して満遍なく混ぜる。杓子で混ぜる感覚は禁物で、鍋を振って中身を返す、または散らすのが肝心だ。シットリ炒飯かパラパラ炒飯か、この返しの長さで調節することになる。
 下手くその悲しさで、大胆に鍋を振ろうとすれば、具材の一部が鍋の外へ飛出したりもする。汚れた場所に落ちなければ、指先で摘んで鍋内に戻す。
 具が混ざり、パラパラ度も適当となったら、醤油を少々投入。茶匙一杯程度か。入れ過ぎは厳禁。味付けではなく、鍋肌に触れて一瞬で焦げた醤油が香りを添えてくれるだけの役割だ。
 皿に盛ったら、擦り胡麻青海苔を振掛けて完成。チャーシューだの長ネギだの、味や風味を出してくれる材料を持合わせぬ台所で、なんとか炒飯もどきを仕立てる苦肉の調理だ。邪道である。ではあるが、ぬた風オニオンスライスと炒飯もどきとの二品をもって、昨日早朝に収穫したばかりの超新鮮玉ねぎ丸ごと一個が、わが胃袋に収まることとなる。