一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

発明について

 

 同人雑誌に発表された作品が、若き文学仲間のあいだで高く評価され、いざ檜舞台へと乗出そうとしたところで夭折した梶井基次郎が、多くの後進作家たちから尊重され、今なお読者が途切れぬのは、彼の発明の数かずがあまりに鮮烈だったからだ。
 他人が思いつけもしなかったアイデアを提示したのではない。エジソンの発明とは違う。提示されたとたんに、だれもがすでに知っていたとしか思えなくなるような言葉の工夫を、文学的発明という。

 『愛撫』は膝の上の愛猫を撫でたり引っぱったり、噛んだり匂いを嗅いだり、さまざまにいじくり回した男の噺である。猫の耳というもんは、じつにに不思議だと、男は云う。表は毛が密集しているのに、裏はツルンと艶めいている。光にかざすと、向うの明るみが透けるほどだ。切符切りでパチンとやってみたいという。
 読んだ瞬間に読者は、あっ、と胸を衝かれることだろう。自分もかねがねそう思っていたと。猫の耳はまことにさようなものだと。
 鉄道でも市電でもバスでも、かつては改札口を通過したか車掌が検札したかを証するために、穴開けパンチのごとき鋏で切符に穴を空けるか、端を切り落すかした。それが読者に伝わらぬ時代となったことは、作家の責任ではないだろう。現代の読者には、「切符切り」を穴開けパンチかホチキスと翻訳しておけばよいことだ。

 「切符切りでパチン」は凄まじい発明だが、その発明はなみなみならぬ検証の成果たる次第を、男は以下に語ってゆく。猫の耳は引っぱりに強い。兎と同じで耳を掴んで吊るしても痛がらない。筋肉に裂け目が入っても命に別状ない内部組織となっているようだ。それどころか多くの猫の耳の組織内では、かつて裂けた形跡を示す補片(つぎ)が当っている。
 引っぱりには強くても、噛まれるには弱い。軽く噛んでやると小声で悲鳴を挙げる。徐々に強く噛んでゆくと、悲鳴も徐々に大きくなる。いったいこの男は、どんな実験・観察をどれだけ繰返したもんだろうか。

 呆れるほど無邪気とも、他愛ないとも、物好きとも暇人とも云えそうだ。しかし男の空想は、とんでもない方向へと増殖してゆく。


 猫の爪をすべて引っこ抜いてしまったら、どうなるだろうか。飼主の着衣に跳びかかっても、樹に登ろうとしても、いつものようにはゆかない。いく度挑戦しても無駄だ。やがて猫は、自分がかつての自分でないことを悟り始め、自信を失ってゆく。ただよたよたと歩く別の動物となってゆき、試みることすらしなくなる。

 ―― 爪のない猫! こんな、便りない、哀れな心持のものがあらうか! 空想を失つてしまつた詩人、早發性痴呆に陥つた天才にも似てゐる!

 「!」の繰返しはなんとしたことか。この作家がつねの趣味とするところではない。肺疾の進行は、日に日に彼の肉体を弱らせてゆく。才能の余力と衰弱との、日夜を分たぬ格闘だ。猫の耳の組織とはちがって、人間の臓器には補片(つぎ)が当らない。
 そう考えると、卓越したユーモアと読めた「切符切りでパチン」の発明も、なにやらただならぬ含意を匂わせ始める。穴が空いた、もしくは縁が欠損した猫の耳は、はたして塞がるものだろうか。再生するものだろうか。男は切実な想いで、それを知りたかったのだろう。
 まさか実際に猫の耳を切ってみるわけにもゆくまい。せめてもの想いで、噛んでみたのだ。