一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

肉声への眼覚め



 芝居との出逢いは、劇団「雲」公演、福田恆存脚色によるドストエフスキー罪と罰』だった。それ以前に、親に連れられて水谷八重子(先代)と大矢市次郎の『婦系図』を観たというような体験は、別としてである。

 丸の内ピカデリーで映画を観た帰りだった。国鉄有楽町駅のホームに立って、山手線の到着を待っていた。高校一年の秋である。池袋へ帰るだけなら、地下鉄丸ノ内線が早道だが、山手線日暮里駅までの通学定期券を所持していた。安上りなばかりか、ともすると有楽町から最短区間の切符を買って、キセル乗車を企てていたのだったかもしれない。
 ホームに立った眼の前には、そごう百貨店がそびえていて、屋上から二階部分へかけて、「罪と罰」と染め抜いた巨大な垂れ幕がさがっていた。どうやら百貨店最上階が劇場となっていて、芝居が上演されているらしい。後で思えば、読売ホールである。ほんの数か月前に、夏休みを費やしてドストエフスキー罪と罰』をチンプンカンプンのままに読了したばかりだった。
 なにを思ったもんだか、高校生は駅を出て、百貨店へ入っていった。直通エレベーターも知らずに、階段を昇った。長机の受付に三人の女性が腰掛けていた。ウワッ、女優さんの卵かしらん、綺麗な人ばかりだと気圧された。映画館とはわけが違うとわきまえてはいたから、
 「あのー、当日券というのは、あるんでしょうか?」
 最後列の席で、すぐ背後の壁には窓が切ってあって、照明設備が見えた。

 幕が揚って、また驚いた。マイクを通してないのに、役者さんたちの声が聞えてくる。高橋昌也のラスコーリニコフ芥川比呂志ポルフィーリー判事が、冗談やおべんちゃらを混ぜながら時どき脅かしたりして、心理的にジワジワと追詰めていく。「まさにそこなんでしてね」と高橋昌也を指差す芥川比呂志の指が、未使用の鉛筆くらい長く見えた。
 ラスコーリニコフの恋人が谷口香、妹が岸田今日子、親友が稲垣昭三、酔いどれマルメラードフが松村達雄、天性の悪漢スヴィドリガイロフが神山繁、その他の脇役に名古屋章、渥美国泰、内田稔三谷昇、北村総一郎。映画かテレビドラマで観たことがあるような人たちが、総掛りで取組んでいる。この人たちの本職はこれだったのか。
 とんでもないもんを視ちまった。暢気にツイスト踊って鼻唄口ずさんで、ナンパ映画観てる場合じゃねえぞ、こりゃあ。

 もしもあの日、ひたすら山手線だけを待って、背後の京浜東北線がわを振返ったりしなかったら、いやその前に、わずかばかりの電車賃をケチらずに早道の地下鉄で帰っていたら、いやその前に、記憶にも残ってない映画を観に丸の内ピカデリーへ行っていなければと、若き日のタラレバを空想することは、愉しくもあり切なくもある。
 が、遅かれ早かれいずれどこかでなんらかの出逢いが生じて、実際に歩んだような裏道稼業に身を沈めることとなったのだろう。そうに違いない。ともあれこの日から、小遣いの使いみちが、著しく変化したのだった。


 芝居関連の紙物を整理するにあたって、シェイクスピアチェーホフベケットだと分類していったのでは、たいへんな手間となる。かといって時代順も、照合に手間どりそうだ。もっとも味気ないやり口だが、劇団別にバッサリといくのが早道だ。

 私の世代だと、俳優座ハムレット』は山本圭ハムレット佐藤オリエのオフィーリアだ。
 『桜の園』だと、東山千栄子のラネーフスカヤには間に合っていない。岩崎加根子である。東山の残像がまだ残っていた時代で、岩崎のラネーフスカヤには色気があり過ぎるという、奇妙な劇評があった。農園がロパーヒンに落札され、ドン詰りの現状をいよいよ思い知るにいたった夫人が、椅子に腰掛けたまま「あぁ~」と首を振り身を揉む瞬間に、岩崎加根子の結い上げた髪がグサッと崩れた。色気と云うならたしかに、凄まじい色気だった。
 ハロルド・ピンター『管理人』は、当時前衛劇とも位置付けられた作品だったが、ベテラン永井智雄が大量の長台詞を早口でまくしたてたのに驚かされた。われら茶の間にとっては、NHK のドラマ『事件記者』における相沢キャップである。こちらがご本職でしたかと、このときも思った。

 劇団俳優座は、ブレヒト作品の最有力上演劇団といえよう。が、ブレヒト理解が不十分な私には、田中千禾夫戯曲を上演してくれる劇団との印象もある。
 今こうしてプログラムを並べてみると、思いのほか数が少ない。ある時期から、俳優座を鬱然たる大劇団と位置づけて、より冒険的な小劇団へと私の関心が移っていったものと思われる。