今日も「身に危険な暑さ」となることだろう。午前六時に行動開始。
拙宅玄関番たるネズミモチの根元から、東がわ塀までの、四畳半ひと間ほどの場所である。ガスメーター検針員さんらに建屋裏手へ廻っていただくさいの、通路入口にあたる。陽射し風通しともに、敷地内最良の一画だから、こちらが隙を見せれば、ドクダミ・シダ・ヤブガラシの三大迷惑トリオによる欲しいままの狼藉区画となる。しかし私の眼にも来訪者の眼にも立ちやすい一画だから、草むしりの手も頻繁に入る。今年三度目だ。過去には枯葉枯枝類をいく度も埋めた一画だから、土は柔らかく瓦礫もほとんどない。作業は捗る。
塀ぎわには彼岸花のバルブ群が二か所ある。昨年の花時には、彼岸花棲息の第二第三地帯と称んだ一画だ。花どきを過ぎてからは、花の涼しさからは想像できぬほど逞しい葉を繁茂させて、堂々と冬越しした。役割を了えた春先には、見苦しく枯れたから、前回の草むしりですべて刈り取った。
今ではバルブ群の頭だけがブツブツと地表に見え、ここに居ますよと主張するかのようだ。踏んづけたくらいでへたばる連中ではないが、なんとなく避けて歩く気にさせられる。
拙宅にあってはこれでも良質の部類に属する土質の一画で作業していると、専門職人さんがお使いになる「草引き」という語が思い当る。「草むしり、草取り」とほぼ同義と思われる。
雑草の種類にもよるが割合で申せば、地中浅いところで根を横に伸ばしてゆく連中が多い。地上を横に這ってゆく蔓性植物もある。ほとんど地面に載っているだけといったコケ連中もある。これらを片づけてゆくには、根元を摘んだ指を上に引くよりも、地面と平行に引いたほうが、はるかに捗る。「地中から引っこ抜く」のではなく「地面を引掻く」ような動きとなる。
例外はタンポポの仲間たちで、根をどこまでも深くに伸ばしてゆこうとする。力づくで引っこ抜くか鎌やスコップを用いて掘り出すか、妥協して途中で千切るかである。今日の一画には少ないが、この連中が勢力を得ている一画が別にあって、そこを手掛ける朝は始めから気が重い。
今朝の一画には鎌を使うこともなく、瓦礫や割れ鉢片やプラゴミその他を分別する手間もかからないから、もっぱら「草引き」した。七時まで、一時間作業。
ところで、大山康晴十五世将棋名人ご健在時分の観戦記事には、「金は引く手に妙手あり」という格言のような決め台詞のような言葉が、時おり用いられた。
申すまでもなく「金」は自王の側近にあって防御の要となる駒だ。それでいて乱戦を経ての終局間近には、敵王の息の根を止めに赴きもする、攻防のバランスを司る駒だ。自陣敵陣のどこに「金」があるかが、盤上全局面を判断する目安になるとも云える。
その代り、「飛」「角」「桂」「香」のように長距離を一気に移動する機能はもたない。前線にあって敵と激しく渉りあう機会も「銀」ほどに多くはない。安定感ある強い駒である割には、MVP に指名されるようなファインプレイの機会に乏しい駒だ。もし晴れの場に立つとすれば、「金」ならではの重厚にして敵王を逃さぬ行届いた攻めが成功した場合がほとんどだ。
大山十五世名人は、防御の免許皆伝者だった。あらゆる駒の習性として、前進するところに好手・妙手が生れる。ところが大山名人にだけは、「金」を真後ろに引くという余人には思いつかぬ妙手がいく度も指された。備える、じっと力を蓄える、我慢する、自重する、様子を窺うその他、前線での攻防をあえて急がずに全局面のバランスを洞察した一手だ。指されてみて初めて、それが妙手と余人にも知れた。解説棋士も観戦記者も「金は引く手に妙手あり」と驚嘆し、報じた。
押す、撃つ、突く、刺す、切る、進む。いずれもが妙手を生む可能性のある行動だとは、青年にも知れる。が、引く手の妙手には、その気になって注意しないと気づきにくい。そこにも妙手がありうることは、社会人としてご苦労を積まれたかたであれば、どなたにもご同意いただけよう。文学や芸術表現においてだって同様だ。それでも気づきにくい。齢老いてみても、やはり気づきにくい。