アレッ花芽か。本気かよォ。
玄関から門扉への通路の左岸右岸にて命脈を保っている、先祖還り君子蘭を丸刈りにしたところ、数日のうちに芽を吹いてきた。丸っこい矮性の芽がじわじわ出てきたバルブがほとんどのなかで、細く丈高い芽がヒュッと出てきたバルブが、左岸右岸に一個づつある。昨日まで無頓着だった。全身が地中に没したバルブから、四分の一ほどが地上に現れたバルブまであって、どのていどが最適なのか、判断できなかったからだ。当るも八卦当らぬも、というわけで、なりゆきのまま放置しておいた。
今朝、しげしげと眺めてみると、「じわじわ」と「ヒュッ」とは条件による個体差ではなさそうだ。細く長身の芽は、どうやら花を開くつもりでいるようだ。
開花するとなれば、大ごとだ。彼らが馴染みやすい用土に恵まれ、適当な大きさの鉢に納まり、気を遣った水分が補給されていた、つまり園芸品種だった時分に最後の花を咲かせて以来のこととなる。二十年以上前のことで、正確にはなん年前だったか記憶が曖昧だ。
植物動物に共通する生命活動として、みずからの生存が危ういと察知したとき、次世代を残すべく、生殖増殖に懸命になるという。危機を感じぬうちは、その場でわが肉体をぬくぬくと肥大化させていればよいのだ。バルブを巨きくして、周辺に仔バルブ孫バルブを派生させてゆけばよかったのだ。
この場にいては生命危うしと判断したればこそ、風媒するつもりか虫媒するつもりか知らぬが、次世代の種子を形成して、まだ見ぬ地への移住発展を準備するのではあるまいか。
わが敷地内に、いかなる危機が近づいているのだろうか。予知能力において人間は、植物にも昆虫にも、遠く及ばない。君子蘭の考えを聴きたく思うが、当方に修練が足りていない。
所沢市の大学で週一回働いていた時分に、こんなことがあった。午前中の雨が小降りになっていた。午後一時から出番だった私は、正午過ぎに楽屋(講師控室)入りした。
「いつまた降り出さないともかぎらない空模様ですね」「うっとうしいことで」
詰めていた事務員さんと助手君とは口を揃えた。私は応えた。
「これで上ります。もう降りませんよ」
二人は怪訝そうな顔をした。教室での出番を二時半に了えて楽屋へ戻るころには、雲間に青空さえ覗く好天となっていた。
「ほんとうに晴れましたねえ、どうして判ったんです? 勘ですか?」
「いいえ、植込みの巣から蟻たちがいっせいに出てきて、四方八方に散っていましたからねえ。また降り出すのであれば、彼らはあんなに大挙して行動開始しませんよ」
正門から楽屋までの道筋の脇に桜と金木犀の立つ植込みがあって、出勤途上にたまたま眼にしていた光景が記憶にあったまでのことだ。事務員さんも助手君も、疑わしそうな眼差しを向けてきた。
昨日の午後は涼を求めて出掛けた。少々根を詰めて本を読まねばならぬ仕事があって、さすがに昭和の扇風機と浴室での冷水シャワーではでは追いつかず、冷房が恋しかった。日傘として、またスコールが来ても対応できるように、柄物の布傘を腕に提げた。晩年の永井荷風の写真が頭の隅をよぎった。
定席のロッテリアではまたたく間に二時間が経過した。店へ配慮して、再オーダーの時間だ。が、読みかけの本が面倒な局面に差しかかっている。気分を変えるべく、店外へ出た。異様に暑い。再入店するかとも考えた。
ふと気紛れを起して電車に乗る。池袋駅から冷房通路伝いに辿り着ける三省堂書店を冷かす。文芸書の棚に、知った本は皆無だ。岩波文庫・ちくま文庫の棚に至って、ようやく知った本と出逢う。買いたいものは視当らない。
ジュンク堂へも回りたかったし、古書往来座さんへも挨拶したかった。ロフトで物色したい文房具もあった。が、人混みにくたびれてしまった。第二の定席としているタカセサロンへ直行。本日のおやつは、アイスレモンティーとバウムクーヘンとした。
入店するころ、空模様が風雲急を告げていた。果せるかな、広い店内にも雷鳴が伝わるほどの雷雨となった。つねのごとくピークは三十分と高を括っていたが、昨日にあってはさにあらず、二時間以上も降り続いた。閉店三十分前となり、荷物をまとめて退店するころ、まだ降っていた。日傘は雨傘となった。
わが町へと戻る。肉体も精神も、〆鯖と冷奴で一杯を欲している。けれども読みかけの本がある。それもかなり重要な佳境だ。やむなくロッテリアに再入店した。
君子蘭にとって、土質も近辺の植生環境もおよそ適当とは申しがたい。花を一人前にまで生育させるのは容易でなかろう。途中で萎れて、企てを断念せざるをえなくなる公算が高い。
運よく開花させて、近隣の適した環境にまで子孫を届ける運びとなればめでたいが、拙宅敷地内の劣悪土壌に再入店する可能性もある。