あとどれだけ、待ったらいいのだろうか。
二十世紀後半を生きた者で、文学か演劇に興味を抱いた経験がある者なら、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』に考え込まされた経験をもたぬ者は少なかろう。
噺をくわしくなぞることをここでは措いて、粗雑に申しておけば、二人の浮浪者が、自分の存在理由やら生甲斐やらを説き明かしてくれるはずのゴドーなる人物を、来る日も来る日も待ちわびて過したあげく、ついにゴドーはやって来ないという噺だ。
日本での初演は宮口精二主演による文学座アトリエ公演とのことだが、私は年代的に間に合っていない。次が宇野重吉・米倉斉加年主演による劇団民藝公演で、これが日本の観客の多くに衝撃を与え、話題となった。脇役が下條正巳・大滝秀治という、後年から考えると豪華役者陣だった。
高校一年生の十二月に観て、あまりの衝撃を受けた。好評につき、年明け早々に追加公演されたが、それも観た。秋口に劇団雲による『罪と罰』に驚いて新劇豆ファンとなったばかりの少年が、数か月後には『ゴドー』を観ていたとは、この齢ごろの脱皮と情報圏急拡大の速度は恐るべきものだ。
後年も『ゴドー』上演と聴くと、観劇欲を掻き立てられた。ところが残念なことに、大きな公演だったのにもかかわらずプログラムが残っていなかったりする。理由は判らない。
冥の会公演のプログラムが残っている。観世寿夫・野村万之丞(のちの野村萬)主演により、紀伊国屋ホールで上演された。柄本明・石橋蓮司主演は世田谷パブリックシアターだったか。そこまではいい。白石加代子・毬谷友子主演で鴻上尚史演出による女性版ゴドーのプログラムがない。串田和美・緒形拳主演による渋谷文化村での公演プログラムもない。なにかの機会に持出して、もとの場所に戻さぬままになったものだろうか。理由は不明だ。
小劇団による意欲的公演もあった。学生劇団やアマチュア劇団による公演に出かけたこともある。しかし証拠の品がほとんど残っていない。唯一の例外は、アルファ企画第一回プロデュース公演と銘打った青山の草月会館ホールでの、ビラのようなプログラムとチケット半券が残っている。先ごろ惜しくも他界した齢下の畏友安東良夫が出演していたからだ。
『ゴドー待ち』は今なお上演され続けている。が、私はいつ頃からかこの演目への興味を喪った。実人生においては、待ち人などやって来ないのがあたりまえだと、骨身に沁みたからである。『ゴドー』の記憶資料を古書肆に出す。
『ゴドーを待ちながら』を皮切りに、劇団民藝の演目には、ずいぶん蒙を啓かれてきた。木下順二作品への理解も、民藝の舞台あってこそ深まったといえる。だが例のごとく、これを逸しては劇団民藝とは称べまいという代表的舞台のいくつかについて、プログラムが出てこない。それらを捜すために大掃除を敢行する余裕も、もはやない。
上の写真撮影を了えてから、ジャン・ポール・サルトル『汚れた手』のプログラムが出てきたが、もはや撮り直さないことにする。他の戯曲作品については普通に上演許可を出したサルトルだったが、『汚れた手』だけは世界中どこの劇団にも許可しなかった。誤解を生みやすい微妙な思想問題を含む戯曲だ。企画のどなたかが、滝沢修の舞台写真を提示して交渉に臨んだ。じっと視入ったサルトルは「ムッシュ・タキザワが主人公のエドレルを演じてくれるなら、許可しましょう」と応えたという。だからこれが世界初上演のはずだ。
感謝申しあげつつ、劇団民藝のプログラム類を、古書肆に出す。