一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

花道



 南千住の集文堂書店が、創業以来百二年にわたって提げてきた暖簾を、さきごろ降ろした。

 全国展開する超大型書店が繁華街にビルを構え、大量情報の大量販売を競う時代がやって来て、すでに久しい。それら超大型店すらが、紙媒体の衰退により経営形態の変革を迫らる時代となった。
 それよりもずっとずうっと以前、書店は町内の情報センターであり地域の文化施設だった。通りすがりの住民は店内に立寄り、流行の匂いを嗅いだ。定連客は贔屓作家の新刊を視逃すまいとし、定期購読雑誌の最新号の到着を待ちわびた。近隣の小中学校へは教科書や副教材を届けた。
 しっかりした考えのご店主による、地元に根づいた書店が数軒あることで、町の住民の文化水準が推察できた時代だった。集文堂書店はそんな時代からの、老舗中の老舗店だった。

 学友大川君は、同店の三代目ご店主だ。中高一貫校では、生涯の仲間づくりに配慮してかそれとも受験指導の便宜からか、高二から高三への進級時にはクラス編成替えがおこなわれなかった。中二から高二までの進級時には編成替えがあった。つまり六年間在学中に五つのクラスを経験するわけだ。いかなるクジ運のさいわいか、大川君とはずっと同級だった。
 明朗にして技芸スポーツともに万能の人気者で、他分野へ乗出しても成功するにちがいない男だったが、大学卒業後は迷うことなく老舗継承の途を歩んだ。
 結婚披露宴には、日本出版販売株式会社(出版界での通称:日版さん)重役から部課長がズラリと居並んだ。「お祖父さまには、たいへんお世話になりまして」という偉いさんの祝辞があい次いだ。それからでさえ、なん十年もが経った。

 時代に向けて世間に向けて、ご町内や地元住民へ向けて、百二年間も掲げ続けてきた暖簾を降ろすとの英断にいたった心中に、私の想像なんぞは及ぶべくもない。
 「一〇二年間有難うございました」の文言は、彼一人の声が云っているのではない。お父上の笑顔には記憶がある。お祖父さまについては、もちろん存じあげない。
 余白に「動けるうちにと思い決断しました」との添書きがある。十回も二十回も読んだ。

 エアコン涼みの場所を求めて池袋へ出ても、雑司ヶ谷古書往来座さんにはご無沙汰していた。猛暑の時間帯に、わずか徒歩十分でさえ億劫だった。しかし自分の力で片づけられることは、なるべく片づけねばならない。今日こそは。
 さいわいご店主も女性店長さんも在店された。ご店主には、先日のわが喋くり興行にお仲間とお誘い合せでご来場くださったお礼を申しあげた。シフト調整では店長さんもお骨折りくださったにちがいない。
 本を買うなと自分に命じている暮しなので、書店を訪ねるのは眼の毒である。お買上げやお訊ねのお客さまによる中断を挟みながら、長ながと世間噺ばかりさせていただいた。つまりご商売のお邪魔ばかりした。
 
 ようやく陽が傾いて、わが町へ帰り着いた。今宵ばかりはだれにも内緒で、一人で一献と思い定めていた。いつもの店の、いつものカウンターの、いつもの席が空いていればよろしいがと、道みち念じながらトボトボ小股に歩いた。
 後期高齢者として最初の、生ビールに〆鯖に冷奴である。〆鯖には湯掻いた若布たっぷりに大葉が一枚添えられてあるから注文する。冷奴には刻みネギと削り節とおろし生姜がたっぷり乗っているから注文する。


 お代りは、最初のカルピスサワーとポテトサラダである。ポテトサラダにはレタスがたっぷり添えられてあるから注文する。なにかお訊ねでも?