一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

晴耕雨断



 雨が続くと、草むしりができない。外出も面倒だ。断捨離が少し進む。

 劇作家でもあった川島順平教授が、下級生の初級フランス語をご担当なさった教室に在籍したことがある。見事な白髪痩身で、スマートな老教授だった。外国語の習得には極端に不熱心だった落ちこぼれ学生の私とっては、退屈な授業だった。教授が学窓というよりは劇壇のかただということすら、存じあげなかった。
 「ぼくがパリィにいたとき、ちょうどアヌイが~」
 リーダー訳読の合間の脱線噺で、パリ大学への留学時代のこぼれ噺になった。
 おいおい、この人はジャン・アヌイとじかに会ってきた人かい。噺はおだやかじゃねえなぁと、眼を瞠った。いわゆる、一瞬にして耳がダンボになった、というやつである。じつにじつに不埒ながら、教授のご講義はその場面しか憶えていない。
 もしも私が学生諸君を前にして、
 「『早稲田文学』のパーティーで受付の下働きをしていたとき、井伏鱒二先生が通りかかられて、近くに立っておられた丹羽文雄先生に~」
 なんぞと語ったら、やはりこの爺さん藪から棒になにを云いだすのだと、思われるのだろうか。
 『ひばり』や『野生の女』を面白く読みはしたものの、ジャン・アヌイの広さ・巨きさには気づけぬまま、すれ違うことになってしまった。

 その先行者ジャン・ジロドゥについては、日生劇場で『オンディーヌ』『永遠の処女』を観て、子ども心に「なんて可愛い女優さんだろう、加賀まりこっていうんだって」と感嘆した記憶があったので、期待して読んだが、そんな甘いもんじゃなかった。ギリシア悲劇や西洋古典についてなにも知らぬ段階では、アヌイもジロドゥも受取りようがなかったのである。
 たった一作『トロイ戦争は起らない』だけが、わが愛読古典として残った。ギリシア軍によって完膚なきまでに攻め滅ぼされ焼き払われて、まだ煙をあげるトロイの瓦礫に立った詩人が、
 「かくしてトロイは滅んだ。あとはギリシアの詩人たちが語ってくれるであろう」
 幕が下りる。下りた幕の向うでは、おそらく詩人はみずから炎のなかへと身を投じたのだろう。トロイの語り部は絶えた。が、その遺言を受取ったかのように、やがて勝利者ギリシア人の立場から、ホメロスが『イリアス』を書いた(語った)という順序になるのだろう、現実には。
 歴史ということについても、文学ということについても、私はこの一作から多くを学んだと思っている。だが『トロイ戦争』一作で用が足りるのであれば、世界文学全集その他にも入っている。ジロドゥの戯曲全集が手元にある必要はない。

 わが学生時代にはヌーヴォロマン系・アンチテアトル系の文学・演劇を語ることが、一部学生間での流行だった。アルチュール・アダモフはロシア帝国下に産れたアルメニア人だが、一家でフランスへ移住した。有名なサミュエル・ベケットやウジェーヌ・イヨネスコとならぶ不条理劇の代表作家である。もはや再読の機会はあるまい。
 イギリスには旧「怒れる若者たち」系と目された、挑戦的で告発的な劇作家が登場してきた。同じく実験的手法を採ってはいても、フランス系の不条理劇とは異なった。日本の学生にも、不条理劇ほどではなかったものの、愛読者は多かった。ハロルド・ピンターアーノルド・ウェスカーは、読まれもし、上演もされた。が、私にはもはや再読の機会は訪れまい。
 フランシス・ファーガソン『演劇の理念』はよく読まれた演劇論だ。西欧史の流れにあっては演劇はかように定義されると、はっきりさせてくれる。ジョージ・スタイナー『悲劇の死』とならんで、西欧人にとって芸術とは、抜きがたく(ということは宿命的に)かようなものなのだと気づかせてくれた。わが方の、よろづ人の心を種として言の葉にのせて(古今集の序)とは異なるわいと思い知らされた。


 ベルトルト・ブレヒトの好い読者には、ついになれなかった。理念は納得できる。上演された舞台のいくつかは堪能した。が、理念とは異なる点を堪能したのではないかとの、自分自身への疑問が残っている。
 乱暴に大別すれば、長い歴史のなかで演劇的感動は二種類しか定義されていない。歌え踊れ、笑って泣いて見せよ。観客を酔わせ歓ばせて共感させるがいい。これがひとつ。面白がらせながらも、それは違うと気づかせよ。観客を眼醒めさせ、考えさせるがいい。これがもうひとつだ。前者がアリストテレス詩学』いらい連綿と続いてきた共感の定義で、いわば同化効果としての感動だ。後者がブレヒト主張するところの覚醒自覚の定義で、いわば異化効果としての感動である。
 理屈としては、むろん両方とも納得できる。が、異化効果の感動をついに躰ごと実感するという経験に恵まれなかった。読者として、また鑑賞者としての、才能の限界だったのだろう。
 余談ながら、欧米の劇作家や演出家のうちに、日本の能楽に異常なほどの興味を示す少数が現れるのは、能の理念や演能の技法のなかに、同化・異化の境界を超越してみたり往ったり来たりしてみたりする、可能性を垣間見るからだろう。

 同化、異化、政治的告発、不条理、現代演劇の諸相を分類して代表作を示した『現代世界演劇』シリーズは、啓蒙力抜群の諸巻だったが、今となっては世界全体を知ろうなんぞという野心は、私の内のどこを探してもありはしない。
 海外の現代演劇、その一部を、古書肆に出す。