
寝酒に一杯、なんぞと一人前の口をきいたところで、かつての自分に較べれば、下戸も同然といったところ。台所での、寝る前のほんのいっときだ。
バーボンお湯割り。と云っても、これも生意気か。割り過ぎである。小ぶりのオンザロック・グラスの底に、酒を一センチ足らず。小鍋に沸かした湯をたっぷり注ぐ。なんのことはない、わずかに色と香りがついた湯である。
グラスを小ぶりにするのは、あまりにちびちびと、まさしく舐めるようにしか飲まぬから、丈のあるグラスやマグカップでは、湯が冷めてしまう。ロックグラスが空になったら、まめに小鍋の登場となる。
一杯目は、チーズと梅干にて。冷蔵庫から出すだけだから、即座に用意できる。まだ腰を降ろせないから、次の作業をしながらの立飲みちびちびだ。
NHK「ラジオ深夜便」では「作家でつづる流行歌」だとか。今夜は服部良一特集だ。笠置シヅ子の「東京ブギウギ」が流れてくる。進駐軍ってもんがあったんだろうな。ダンスホールってもんがあったんだろうな。
自家製のポテトチップスができた。薄切りにしたメイクイーンに、ごくユル~イ衣をまとわせて揚げただけのものだ。油を切って深皿に移したら、塩をひとつまみ振りかけて、金笊で蓋をしてカシャカシャとたっぷり揺さぶり振ってやる。できあがりだ。今夜は竹輪の余りがあったので、やはり薄切りにして揚げ、塩の段階から混ぜてやった。
小鍋の登場。二杯目だ。ようやく腰を降ろせる。
ラジオからは、二葉あき子の「夜のプラットホーム」が流れてくる。若者が聴けば、遠距離恋愛の男が帰ってゆくのを、ホームで「またね」と見送る女としか聞えまい。そう聞えておかしくない歌詞だ。あからさまなことは、なにひとつ書いてない。
むろんこれは、出征してゆく男を見送る女を描いた唄だ。第二コーラスで、列車が去り見送り人たちも散り果て、閑散としたホームの柱に寄りそって独りたたずむ私、とある。当時の日本人ならだれ一人として、この情景を想い浮べられぬことはなかった。そんな時代だったし、そんな国だった。
三杯目は、豆腐でゆく。すっかり豆腐づいて、納豆とご無沙汰してしまっている。老化現象だろうか。片寄りはよろしくないのだが。
藤山一郎と奈良光江のデュエットで「青い山脈」が流れてくる。清潔で正直で、前向きで明るい石坂洋次郎ワールドだ。今ならさしづめ能天気なお花畑の教祖と、文学も唄も受取られてしまいそうだ。しかし歌詞のなかでは「憧れ」とはっきり云ってある。こんな憧れを胸に抱きながらでなければ、日々をやり過せぬほど、日本人の多くは貧しく、だれもが理不尽な我慢を強いられていたのだ。
もう一杯飲むか? よしにしておこう。酔う必要はない。いくらかなりとも睡眠が深くなれば、それでいいのだ。眼醒めてトイレに急ぐ回数が減ればいいのだ。それにしても奈良光江って歌手は、めっぽうきれいな女性だった。
小鍋がまた登場した。が、〆はココアだ。だらしないったらありゃしない。就寝前の珈琲は眠りを浅くすると聴いたので、ココアならいかがかと思ったに過ぎない。ビッグエーの駄菓子の残りがある。小丸ドーナツと黒棒だ。黒棒とは、有名なうまい棒の小型ざく切りといった感じの、黒糖味の麩菓子である。
ラジオもコーナーの〆となり、ふたたび笠置シヅ子登場で「買物ブギ」。かねてより現代の歌手にこれが唄えようかなどと考えてきたのだったが、去年のいつごろだったか、売れっ子のラッパーが面白く華やかに、たいした迫力でこれを唄っていて、感心されられた。オリジナルは魚屋と八百屋の店頭での品調べだが、現代のラッパーたちに続編のヨドバシ版・マツキヨ版・ダイソー版などを、どんどんやっていただきたい。
「作家でつづる流行歌」は了った。時報とニュースを挟んで、次の一時間は読書コーナーだ。名作にある名言の紹介だいう。今夜採りあげる作品は壺井栄『二十四の瞳』とのことだ。ヒェ~ッ、またソッチ系かぁ。しんどいなぁ。
しかし考えてみなければならない。数多くの制作者や関係者たちが、みづからの裁量の及ぶかぎりで考え、あるいは無意識に選択したかすかなことが、無数に束ねられ巨大化したものこそが、庶民の総意を暗示しているのかもしれない。傑出した論客個人による声高な主張や提言よりは、よっぽどまともで信頼に足る民意の顕れかもしれない。私たちの国と社会とが、壮絶な悲しみに襲われる日は、あんがい近いのだろうか。