
ごく幼い時分から、どういうもんか踏切という造設物が好きである。
晴天に恵まれた。神田祭のさなかとのことだ。明神さまの由緒は平将門を祀ったことに始まるが、やがて江戸八百八町の氏神さまとなった。たいへんな人出でごったがえしていることだろう。さぞや観光客も多かろう。日ごろ明神さまの境内では、ガラス張りの安置所に鎮座して、参詣人や観光者を驚かせ、眼を愉しませている巨大神輿も、今日あたりは眼抜き通りを練り渡るのだろうか。
ひと頃の私であれば、じっとしてなどおられずに、あとさき考えずにともかく出かけてみようと思い立つところだが、今では人混みを歩く気分になれない。
台東区在住の旧友の SNS によれば、その地の社でも夏祭たけなわだという。義理を果せぬままに過ぎてきた旧友だから、こういう日にこそ馳せ参じたくも思うが、やはり勇気が出ない。

わが地域では、芸能遺産たる獅子舞が住民に披露され、神社に奉納される日だ。各商店街の街灯であれ電柱であれ、いたる処に紫の幟が風にはためいている。
第一日目の昨日は、隣駅の駅前広場、暗渠化した谷端川の水源たる粟島神社、そして銭湯や散髪に行く道筋の途中にあるフラワー公園と、処を移し時を替えて三回披露される予定だった。あいにくの空模様のなか、強行実施できたのだろうか。惜しくも中止のやむなきにいたったのだろうか。知らない。訊いてみるに適当な情報通も、思いつかない。
今日は絶好の日和だ。駅前ガード下では、最大イベントたる住民参加型での披露会が催される。防犯用のナイター照明が、全灯一杯に点灯されてある。
まずは子どもたちを対象とする獅子舞のステップ講習会だ。鉦と太鼓と笛によるお囃子のサビ部分での舞いは、悪鬼を退治して地に踏みつける独特なステップの、えんえんたる繰返しだ。参加者全員のステップが揃うことで、見事に盛りあがる群舞となる。そのステップを子どもたちに伝授しようというわけだ。
未来の獅子の手を引いた保護者たちが、近在から押しかける。受付けテントでは、申込票を提示して、小さな菓子袋がもらえる。秋祭での子ども神輿や、山車を曳いたご褒美と同じである。輪になってたどたどしくステップを試みるわが子を、保護者たちは黒山となって取巻き、スマホを構える。新住民がたが、しだいに既存住民となってゆかれるのだろう。
ガードの上は山手通りだ。ガード下はつねに暗ぐらとして、頭上から降りそそぐ車輛通過音や微振動が途絶えることもない。むろん上を通過するどなたも、足下でなにがおこなわれつつあるかを、ごぞんじあるまい。

初体験の児童たちによる奮闘を、近くに腰を降して静かに眺めている少年少女は、現役の獅子たちである。揃いの法被を着込んだ彼ら彼女らは、およそ一時間後に迫ったメインイベントで舞う。各人の脇には、あるいは膝のうえには、箱型の獅子頭が用意されてある。彼らまた彼女らも、かつては保護者に伴われて、舞の手ほどきを受けたのだろうか。
金網塀で区切られたバックヤードのテントは楽屋となっていて、舞の中心となる主役たちが、装束と打楽器の準備をほぼ了えて、気息を整えるかのように待機している。
駅前からガードを潜ってすぐの処に、踏切がある。朝夕の混雑時には「開かずの踏切」となる場合もある。なん年か前に不幸な事故が起きた。なん百メートルか西にも踏切があって、今年に入ってすぐのころに事故があった。いずれもふつうなら起りようのない、したがってあらかじめ予測できようはずもない、不運な事故だった。
警報ランプや遮断機が改良された。警報機の音量が大きくなった、警告掲示板が増えた。やがては踏切をなくして、他の方法で線路を跨げる、または潜れるようになるのだろう。人間は、きっとそうしてしまうことだろう。
いかにも冴えないガード脇の、まるで隠れた裏道のごときこの細道は、北は旧板橋宿の西から南下してきて、落合の谷を登り降りした果てに、旧内藤新宿の北へと出る道だった。つまり江戸市中へ足を踏み入れることなく、中山道から甲州街道へと迂回する道だった。「北は板橋、南は堀之内(杉並区)」と彫り記された、道しるべを兼ねる石地蔵は、今も金剛院さまのご門前に立っている。
新住民が村を形成して、やがて町となり、鉄道が敷設され、駅ができ、山手通りが通った。
実物を拝見したことはないが、金剛院さまのお蔵には、江戸時代中期の地元地図と檀家一覧(さしづめ住民台帳)が残ってあるという。この村には、およそ二百六十世帯の家族が住んでいたそうだ。ご子孫が現在もお住いという家は、一軒もないという。
拙宅なんぞは、ごく最近にこの地へと流れ着いた新参者である。この地の開拓にも発展にも、なにひとつ寄与してはいない。ごく末端の新住民だ。そして地元を代表して獅子舞を伝承し、奉納してくれているのは、私よりさらに半世紀後の新住民がたである。
私は踏切をいく度渡ってきたのだろうか。人は生涯にいく度くらい踏切を渡るものだろうか。そして踏切は、どれだけの人間を渡らせてきたものだろうか。
子ども時分から、どういうもんか踏切という造設物が好きである。当然ながら、好きの意味合いは、だいぶ変ってきた。