一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

独りでも



 閉店して久しい酒場仲間の寄合いである。早逝した仲間の一周忌を機として、二十名弱の懐かしい顔が集った。

 長年にわたり軽口を叩き合い、揶揄皮肉を飛び交わせながらも、みずから披瀝された事柄以外には互いの身辺に踏込まないのが酒場の作法だから、職業や家庭内事情については互いにろくすっぽ知らぬ同士である。酒場を離れて、職業上もしくは民事上の関りをもつ者はあるまい。
 ひとえにマスターとママさんとの人徳ゆえに実現した酒席であり、人懐こかった仏の人柄を偲んでの一夕である。
 驚くべき手際を見せる幹事さんの手配と進行とにより、三時間半にもわたる宴はまたたく間にハネた。再会を約す面々がある。人情の自然だ。が、なかなかさようなわけにもゆくまいという気も湧く。ことに出席者中の最年長にして、ただ一人の隠居身分たる私とは異なって、まだ人生の役割を了えてはいらっしゃらないかたがたの集まりだ。容易ではあるまい。

 
 しばらくぶりで山手線駒込駅に下車した。南口(六義園方面)は屋根つきの坂道となっていた。以前はいったん駅舎から出て、石橋を渡る仕組みだった。駅前に地下鉄への降り階段が口を開けているから、乗換え客のための連絡通路という位置づけなのだろう。
 通路の両側にはスチール製の波型手摺りが取付けられてある。坂道を考慮しての危険防止策だろうか。車椅子の歩行者や杖を手放せぬ客には、より安心に違いない。今春だったか、山手線原宿駅から地下鉄へと乗換える階段で、同様の設備を視た。
 あるいは私が無知だっただけで、階段や傾斜のある通路では、これが当り前の世の中になっているのだろうか。頻繁に都内を歩き廻る暮しから離れたままの私が、知らぬだけのことなのだろうか。きっとさようにちがいない。
 ともあれ私は、この波型手摺りが、なんだか気に入っている。アートとしてである。


 同方向へと帰る顔ぶれとそれぞれ塊になって、三々五々のサミダレ散会となる。池袋に至り、同じ私鉄沿線への乗換え組ごとに別れる段になった。時刻は十一時を廻ったところだ。まだ今日である。脳裡に浮び出た店が一軒あった。ご一同に失敬を詫びて、独りになった。

 中華街への入りかけから折れて、西一番街を抜け、ロサ会館脇も抜ける。そこからもうひと道、歩き続ける。ほろ酔い老人のトボトボ歩きだ。ガールズバーの客引き君らも、声を掛けてはこない。
 しだいに飲食店の灯が少なくなり、ホテルと半々の道となる。さらに往くと、ホテル街のなかに時おり飲食店が、煌々と灯を点していたりするていどとなる。まだ歩く。
 ここから先は、もう池袋とは称ばないという暗ぐらしたあたりに、その店はある。深夜零時を過ぎても、注文があれば大将は平気な顔して焼鳥を焼く。閉店時間を訊ねた記憶はない。
 初めて入店したのは、五十五年前だ。学友と一緒だった。今の大将のご両親がやっておられた。長野県ご出身のお二人だった。話し上手の大将からはずいぶん慰められた。なに事にも真剣な女将さんからはずいぶん叱られ、励まされた。

 昔、永六輔さんだったか五木寛之さんだったか、それとも小林亜星さんだったか開高健さんだったか、忘れてしまったが、とにかく人生の大先輩と思しきかたの言葉に、こんなのがあった。
 ――男たるもの、三十歳を過ぎたら、友達にも仲間にも、女房にも恋人にも、けっして教えぬ酒場を、一軒だけは確保しておくもんだ。
 三十歳以前だった私にも、なるほどさようなものかと、妙に沁みた。なりたての会社員暮しのなかで、思い当る場面もあったのだろう。すでにかつての学友たちは散りぢりになって、だれ一人通ってはこなかったから、私一人がごくたまに足を向ける居酒屋となった。

 朗らかだった早逝の酒場仲間を、かつての仲間たちと偲ぶ。また独りでも偲ぶ。