一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

人の復興



 十五年めの日だ、東日本大震災の日から。今日は静かに過そう。幸い風もなく、おだやかな陽射しに恵まれた日だ。

 ラジオでは、特集番組が放送されている。回想され、復興のもようが伝えられ、なおも残り続ける問題点が指摘されている。
 中村雅俊さんが故郷の女川を訪問なさるたびに、あれっ、この道は? と、迷子になりそうだと、おっしゃっている。
 福島県では、帰宅困難地域をつい眼と鼻の先にした、立入禁止壁の見える場所で、さつま芋作りの畑で汗を流す人が紹介される。もとのお住いは、あの塀の向うがわだったのだ。

 あの日、十二歳だった少女が、今は語り部として活動しておられる。進路に悩み、一度は郷里を出た。しかし舞い戻り、いく多のボランティア活動を経験した果てに、今はただ語る。みずから肉眼に視た光景を語り、去った人びとから聴かされた噺を一字一句違えぬよう心がけて伝える、という活動を、今も続けている。
 直後の日々、若き僧侶だったひとは、友人の僧侶や教会の牧師と連れ立って、海寄りの被災地を訪ね歩いた。宗派の垣根などありえようもなかった。為せることもなく、茫然とすることの連続だったという。
 わが子を抱いて逃げたとある母は、津波に追いつかれ、もみくちゃにされる間に、子は濁流にさらわれ、母だけがからくも命拾いした。放心状態で無表情の母の前で、言葉がなかった。宗教者とはなに者かと、彼はひたすら自分に問い続けるしかなかった。
 巡回訪問を続けた僧侶は、この母をもたびたび訪ねた。放心のあまり言葉もなかった時期は、まだしもだった。思考力・想像力が蘇って来てからの母は、いく度もリストカットし、睡眠薬の多量服用を繰返した。眼が離せなかったという。
 なんでもいいから、話して聴かせてください……。母は無言だった。無表情のままに僧侶を視詰めていた。僧侶は眼を逸らさなかった。二人が視詰め合って一時間も経ってから、ようやく母は嗚咽を漏らし始めたという。
 なにごとかを語りかけて、人を慰めるなんぞということは、一介の宗教者には無理だ。荷が重過ぎる。ただ聴かせてもらうしかない。彼は被災者の言葉を、ただただ聴き続けた。十五年間で、この僧侶に噺を聴いてもらった人の数は、二万人以上になったという。

 行政機構の問題があり、科学技術の問題があり、経済(予算措置)の問題があって、できる復興は進捗しても、できぬ復興はいっこうに進まない。ただ人の復興は、また復興を遂げた人は、確実にいらっしゃる。数は少ないのだろう。だがこういう噺を、もっともっと聴きたい。

    
 ご近所の居酒屋で知合ったご婦人がある。小学生のご子息と二人して、宮城県から引越してこられた。
 当地の小学校にうまく馴染めないご子息が、早退して帰ってきてしまったことが、いく度かあったという。級友の悪ガキ仲間が無自覚に投げかけた「死ねっ」という罵声を聴くと、とたんに眼がくらみ呼吸困難に陥ってしまうそうだ。やさしかった近所のお婆ちゃんが二階の窓からこっちを視ている。その家ごと引き波にさらわれて、沖へと運ばれていった。そんな光景をこちらの屋上から視ていなければならなかった幼児が、東京の悪ガキの無邪気な一語に、耐えきれなかったのだ。
 「死ね、はいけないよ。それだけは、いけないよ、ねえ」と、悪酔いした茶髪の母親は、いつまでも私に掴みかからむばかりに、繰返した。

 昨日は、東京大空襲から八十一年めの日だった。また母の誕生日でもあった。生きていれば百歳だ。享年は八十歳だった。
 衝撃的な災厄の光景をいつまでも憶えていては、「どんな気持だったろうかねえ」と、想い出して涙ぐむような人だった。東日本大震災の惨状映像を観ずに逝って、ほんとうによかった。