一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

乗り遅れてますが、なにか?



 夕方からは雨模様だという。外出するなら早いうちだ。

 商店街を歩くと、電信柱ごとに青紫色の幟旗が立てられてある。五月の端午の節句に近い週末をつかって、地域の伝統芸能である獅子舞を、観覧ならびに体験してもらおうとの試みのようだ。界隈の神社三か所にて、催されるらしい。

 この街へ引越してきた当時は、平穏を悦びながらも住民各人が暮しの確立だの商売の安定化だのに懸命な時期だった。敗戦からの復興期の残香がどことなく漂っていた気がする。むろん今から思えばのはなしではあるが。
 地元の寺社に伝わる伝承だの伝統芸能だのは、廃れたままの状態だった。高度成長期を経て、さて次なる生き甲斐はどこにと、また地域活性化と住民融和の方途はいずれにと模索する気分がどことなく兆してきたころ、今さらのようにあれこれのことが顧みられるようになってきた観がある。地元神社の秋祭礼の神輿を筆頭に、この獅子舞も、住民の気分をひとつに束ねる行事として、貴重な催しだった時期があった。
 ひとり伝統芸能のみには留まらない。池袋モンパルナスだのアトリエ村だのという言葉も、途切れることなく伝え来たった言葉ではなく、掘起され再確認された、いわばリバイバル標語である。

 しかしご多分に漏れず、後継者難と噂されて久しい。子育てをなさらない、また子育て年齢まえの新住民が増え、外国籍の新住民も増え、さらには一時この街に腰かけ住まいしてもやがてはいずこかへ移り去る予定の新住民や商店主も増えて、町内行事の様相は変化してきた。古くからの商店主や、地元に溶け込もうと積極的な新店主がたからの、嘆きの声を耳にする機会がめっきり増えてきた。
                                                                                                                  


 幟旗の裾には、開催案内に加えて、体験参加の告知がされてある。舞い手たちのきらびやかな装束や鳥の羽のごとき独特な冠までを体験するのは無理としても、ごく単純ないくつかの振りを覚えさえすれば、行列に加わることができる。小学生児童や保護者がたにとっては、地域伝統芸能との合体の好機だ。
 地域社会になんら貢献したこともなく、子育て経験もない私が申すのもはばかり多いが、ぜひとも盛況であって欲しい催しだ。そして時流に抗って骨を折っておられるだろう世話焼きさんがたには、お礼を申しあげたい気分だ。

 駅の写真掲示板ニュースにあった。京都太秦の映画村にあっては、中高生を対象とする撮影所体験の講習が催されたそうだ。現役の監督から撮影の実際を指導してもらえ、殺陣師からは竹刀を使ってのチャンバラ指導を受けたという。さぞや愉しい講習だったことだろう。
 しかしその受講生から次代の映画職人が誕生する可能性は、決して高くはあるまい。娯楽ジャンルの流行と衰退とは、そうやすやすと抗えるほどの逆流ではなかろうからだ。むろん映画は不滅だ(と私は信じる)。だが未曽有の苦労が求められることも必定だ。時流にさからうとは、そういうことだ。


 じつは今日外出したのは、散髪屋へ行きたかったからだった。たいへん混んでいた。待合室代りのベンチが満席だった。こんなこともあるのだろうか。付近の喫煙所と喫茶店にて時間をつぶした。喫茶店もいつになく混んでいた。そこでハタと気づいた。祭日ではないか今日は。天皇誕生日だ。いやみどりの日、いや昭和の日だ。ということは、世の中ではゴールデンウィークが始まっていたのか。
 水曜日だというので、今朝はあたりまえに家庭ゴミのポリ袋を門柱脇に出したのである。時間を経て確かめたら、回収車が廻ってくださったらしく、袋は消えていたのである。安心して外出してきたのである。

 喫茶店にて一時間近く本を読み、ふたたび散髪屋を覗いてみた。待合室の顔ぶれは一新されている。が、ベンチが満席なのだけは同様だ。職人がたは大車輪で客を捌いているのだろう。にもかかわらず片づけたぶんだけ、新たな客が押し寄せているのだろう。
 客人がたも必死なのだろう。今日でなければ、時間がないのかもしれない。今日でなくても差支えない暇人の私なんぞは、遠慮すべき場面ではないだろうか。
 諦めて、ドンキ・ホーテへと急ぐ。横断歩道の信号待ちも大混雑だ。そういえば、池袋駅の地下道も、駅前信号の周辺も、週日とは思えぬほの雑踏だったと、改めて思い当った。迂闊にもほどがある。世間の流れに無頓着にもほどがある。

 ドン・キホーテでは、パソコン用のイヤホンを買った。暑い季節に向って、耳当てのごとき大仰なヘッドホンもいかがかと、かねがね思っていたからである。
 あとは四十ワットと六十ワットの電球が、いくつか欲しかった。宅内のあちこちに、切れっぱなしのまま放置してある灯がある。ところが妙に新式なランプばかりで、私が視知ったような商品は視あたらなかった。どうやらお門ちがいだったようだ。