一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

風景の移ろい



 映像ではどれだけ観せられたものか、見当もつかない。しかし肉眼で、これほど間近に東京ドーム球場を観るのは初めてだ。

 今年に入ってから、六十年前のチームメイトが二人、相次いでシューズを脱いだ。かねてより健康不安を抱えていたとはいえ、ともに医療成果は芳しく、表情には余裕の笑みもあっただけに、急に斃れられてしまった感が拭えなかった。
 心ある同志が骨を折ってくれて、先輩後輩間に回状が廻り、両名ともを偲ぶ追悼会が実現した。通夜にも葬儀にも都合をつけられなかった私にとっては、まことにありがたい催しだった。ご遺族を代表して、両名の令夫人・令嬢をお迎えして、かつてのシューズ仲間・ボール仲間が久びさに顔を揃えた。年齢順での三分の一は、後期高齢者である。

 
 ――彼は卒業後の一時期、役者として芝居に取組んでました。小劇場公演を二作ほど観せてもらいました。うちの一作では、齢下の女優さんとツートップの役どころでしたが、彼女のことをこんなふうに云ってましたっけ。
 「彼女は有望です。将来売れるかもしれません。引きで観ているぶんには、大柄ではありませんけれども、カメラテストのようにフレームを切って、単体で彼女だけを観てみると、じつに巨きいんです」
 人間の資質を視るに、さような視かたがあるのかと、彼から教えられましたっけ。彼女はその後、桐朋学園短大演劇専攻を経て、つかこうへいさんの処で大ブレイクしました。色褪せることのない強烈個性で今もご活躍の、根岸季衣さんです。

 ところでそう云ったご本人も、バスケットボール・プレイヤーとしてけっして大柄ではなかったけれども、その後のご生涯を想い返してみますに、フレームを切って単体で眺めてみると実寸よりも遥かに巨きな人だったのではないでしょうか。
 若き日に、まだ無名の卵に過ぎなかった根岸季衣さんの資質をいち早く視抜いたのは、みずからの志もまたさようであったからに違いないと、今にして思います。

 ――さてもう一方の彼ですが。高校三年時の運動会の「棒倒し」決勝で、彼の組と対戦しました。私は二列縦隊で突撃するわが軍の攻撃隊の先頭です。彼は迎え撃つ敵軍遊撃隊の先頭です。ご承知のとおり攻撃隊の先頭というものは、けっしてスターとはなりえません。敵陣の棒に取り着いて、登ったり揺さぶったりの雄姿が被写体になる連中は、二列縦隊の後部に行列しております。前の半分が敵軍の遊撃隊と刺し違えるように、組んづ解れつ白兵戦を繰広げるなかをすり抜けて、敵陣に到達し襲いかかるのです。いわば前列の負傷兵や屍を踏み越えて、勝利への作戦を完遂させるわけです。
 彼は徹底したマンツーマン方式で、私を潰しに来ました。柔道技かレスリング技かは知りませんが。私は完全に抑え込まれてしまいました。緒戦は時間切れ無判定で、再戦となり、仕切り直しの突撃で、やはり彼に抑え込まれてしまいました。
 運動会「棒倒し」の想い出としては、グラウンドに顔を擦りつけられた記憶しか、私には残っておりません。

 「あれから半世紀あまりも、俺はお前を憎き宿敵と思って生きてきたのだぞ」
 昨年の OB 会の席で、面と向って云ってやりました。むろん本気じゃありません。彼との長き友誼あっての思い出噺です。
 波乱万丈といえた彼の人生にあって、常日頃は思い返すことなどない、あまりに些細な場面でしたろう。しかし忘れ果てたわけではなく、私から云われて懐かしく愉快に蘇った記憶だったのでしょう。ワッハッハと声を挙げて笑いました。愉快そうに、無邪気に、彼はしばらく笑い続けました。
 それが彼との最期になりました。わが意を得たとでもいおうか、心底愉快とでもいおうか、無邪気そのものの笑顔でした。
 出逢いは中学一年生の入部時ですから、短くない付合いです。その最期が、あの晴れやかな笑顔だったということが、なにがなし私の慰めとも救いともなっている気がいたします。


 会場は「後楽園飯店」と回状にあった。「飯店」は日本語の食事処だろうか、中国語のホテルの意味だろうか。いずれにもせよ私には、場違い・身分違いの高級そうな処らしい。「後楽園ホール」のビルだというから、球場の裏手の、たぶんあのあたりだろうと、見当をつけた。しかしもはや私に見覚えのある風景なんぞ、微塵も残っていなかろう。
 一時間以上の余裕をもって、家を出た。案の定、迷子になった。丸ノ内線後楽園駅から、南北線春日駅水道橋駅と、だいぶ散策した。あげくに駐車場の誘導係として仕事中の青年に、道を訊ねた。巨大なビルの一階を、大きく湾曲したトンネルのようにくぐって、橋に沿ってと教わったとおりに辿った。あれっ、さっき通ったすぐ近くじゃないかな、とも思った。
 だって、後楽園ホールだというのに、ファイティング原田を応援に来た時とは、まったく異なる風景なんだもん。

東部戦線

 

 それぞれなにがしかの理由があってむしり残された、飛び地のごとき箇所がある。それらを潰してゆく。東側隣家との境界ブロック塀に沿って、南から北への三日間だ。

 第一日目。門扉すぐ内側。見てくれだけ両開きの門扉だが、じつは外から視た右側は今風カンヌキで固定してあって、左半分で出入りしている。日ごろ閉じられたままの右内側は、眼には丸見えでも、足にはほぼ進入禁止箇所となっている。
 昔そのあたりに置かれてあった階段状の植木鉢飾り棚の、小ぶり樹脂製一基と大型鉄製一基とが、横倒しに置かれてある。粗大ごみ回収に高額を支払うのも腹立たしいし、解体するのも面倒臭いと、先延ばしにしてきた。不用意に踏み込もうとすると、鉄製の横木で頭に怪我をしかねない。で、奥まで容易には手が届かない。

 加えて、隅の三角地帯には、他所で地中から出てきた瓦礫をそのつど放り集めてある。石も瓦片もブロック片も一緒くたに、今や小山をなしている。
 いわば草むしりの無法地帯で、かような場所では古年次兵よろしく、ドクダミとシダとが大型化している。ついにその一画に手を着ける日が来たというわけだ。
 窮屈にしゃがみ込んでの作業だが、面積は狭いので、三十分作業の方針にてどうやら収まった。瓦礫山の隙間から伸び出していたドクダミの奴、ここなら安全と高を括っていたかもしれぬが、人間が本気を出せば、ざっとこんなもんだ。

 
 第二日目。前日より北へ五メートル、東君子蘭の北側、彼岸花第二地帯あたり。
 かつて君子蘭を旧鉢から出して株分け地植えしたさいにも、彼岸花を株分け移封させたさいにも、枯葉枯枝および半腐蝕させた生ゴミをいく度にもわたってたっぷり埋めたあたりだ。ただし昨年は、成仏したと思い込んでいたカボチャの種が芽を吹いて、予想外の景観を創り出してしまったあたりでもある。
 土は柔らかく、草むしりしやすい。地中から瓦礫類もほとんど出てこない。彼岸花の葉はすっかり枯れ切って、地面に貼りついてある。草をむしる手のついでに引きちぎってしまう。バルブ群(球根の集合体?)が、いっせいに地表から頭を覗かせている姿が明瞭になる。花は可憐でも、地中にあってはじつにむくつけき連中である。

 
 第三日目。塀に沿って北詰へ。敷地の北東角で、彼岸花の第五・第六地帯にあたる。ここもドクダミとシダが中心で、彼岸花の枯葉を引きちぎることも昨日と同様だ。あとはか弱い三つ葉類だから、雑作もない。

 さように高を括って作業開始したのだったが、草叢のなかにとんだ伏兵をひと株発見した。オニアザミである。過日むしった西接するひと坪では、姿を視なかったから、油断していた。新領土開拓のために先頭を切ってやって来た、いわば斥候兵だろう。『ローハイド』ではピートの役どころだ。
 たいていの植物とは妥協し、粗雑な草むしりをもって目こぼししてきたが、コイツだけはいけない。はびこられては、あとがたいへん面倒になり、泣かされる破目となる。ひと株たりとも視逃すことはできない。スコップを用いて、根からそっくり掘り上げた。

 径二センチほどの正体不明の根が、地中から現れた。引っぱり上げながら元と末とを確かめようとしたら、どうやらフェンスの土台下をくぐって北接する区立児童公園からやって来て、拙宅建屋下へと伸びているようだ。全長を露わにすることなど、できようはずもない。とりあえず眼の前に現れた一メートル半ほどを、ノコで伐り離した。
 もしやと思い立って、少し掘ってみると案の定、径一センチにも満たない第二の根が這っていた。バイパスである。多くの樹木においては、重要な補給路には第二の根を這わせて来る。危険分散というか、樹木の安全保障だろう。こちらは第一の根より格段に柔らかいので、力任せに引っぱって、やはり一メートル半ほどを掘り上げた。


 期せずして北東角に横長の穴が空いたので、スコップで穴を拡大させた。
 このあたりは土が痩せたか風雨に削られたか、日ごろから地盤沈下がきわだち、水道タンクを据え付けるためのコンクリート敷きの土台までが見えてしまっていた。
 枯枝山から乾燥しきった枝を抱えてきて、剪定鋏で短く断ちながら、穴の底に敷詰めた。冷蔵庫から野菜の剥き皮や切りくずなどの生ゴミの密閉袋を取出してきて、枯枝の上へぶちまけた。数か月かけて溜ったふた袋を、ここで一気に使ってしまう。土を掛ける。丈十センチ近くもありそうな大ミミズが二匹いた。せいぜい活躍してもらおう。
 平らになった地表を、今度は枯草山から草の残骸を大量に運んで、埋め穴の上をこんもりと盛上るほどに覆った。全体重で踏み固めて、また盛った。大ぶりな如雨露に二杯、かなりの量の水をかけて、また踏み固めた。

産地直送



 この季節がやって来た。大北農園でのご丹精の収穫品ご恵贈だ。学友が余生の愉しみと実益とを兼ねて野菜栽培に精を出してくださっているおかげで、年になん度か、私は野菜お大臣の気分を味わうことができる。
 今回は蕪と大根と小松菜と春菊とをいただいた。大根は間引きでも早穫りでもなく、こういう小型品種なのだという。初めて知った。煮てしまう前に、まず大根おろしで味わってみよう。愉しみだ。

 炊事、食事、洗いものと進行する脇で、下処理を少しづつ進める。まず蕪は菜を切離して丁寧に洗う。皮むきしてスライスし、甘酢の浅漬けにする。これが好物だ。酒に酢に、今回は砂糖をやめて蜂蜜にしてみる。生姜をいつもより多めにしてみた。これでさっぱり味になると踏んでいるのだが。
 蕪菜と小松菜はそれぞれ根元を切離して念入りに洗う。産地直送品の場合には不可欠の手間だ。運送中に黄ばんでしまった菜はもったいないが取除く。まず小松菜を茹でる。水通しで冷ましたら、お浸し一回分づつに小分けラップして冷凍庫行きだ。蕪菜は繊維が強くちょいと茹でてお浸しなんぞというわけにはゆかない。逆に浅く茹でておいて、これも冷凍庫行きだ。汁物なり油炒めなり使うときの判断で、細かく刻んでもう一度熱を通す想定にしておく。
 春菊の使いみちは多かろうが、やはり天ぷらで食いたい。となれば冷凍には及ばない。洗って水切りしてから、保存袋に収めて冷蔵庫ゆきだ。もっとも早くいただいてしまうことになりそうだ。


 とにかく野菜というものは、食ってしまえば呆気ないもんだが、洗って切って水切りして、あるいは皮むきして塩をして待ってから洗って布巾で拭いて、あるいは茹でて水通しして時間待ちしてと、おおいに手間のかかるものだ。それだけに、加減が上首尾だったときには愉しい。
 つねの炊事・食事時間なんぞは、とうに過ぎてしまう。食後のインスタント珈琲を飲みながら、まだ火加減を看たりしている。
 本日は時間オーバーだ。大根だけは明日のことにして、泥着きのままそっと古新聞に包み戻しておく。

外国文学諦めた



 読んでみたいと買ってみた。挑んでみたら、あまりに長かった。でも読むに足る作品ではあるようだ。いつか再挑戦して読了したいもんだ。命あるあいだに、果したいもんだ。さよう思って、書架の片隅になん十年も眠り続けてきた本たちがある。

 小林秀雄の大著『本居宣長』は長年にわたって雑誌『新潮』に連載された。あまりに長年だったから、書評子も読者も馴れっこになってしまって、言及されることもなかった。月づきの文芸時評その他で取沙汰される機会など皆無だった。小林秀雄は、たいそう孤独だったという。こんなもんを読んでくれてる人が、世の中のどこかにあるのだろうかと。
 連載一段落して単行本化されるや、世は絶賛の嵐で、重版されるわ賞をくださるわで、小林秀雄自身がすっかり面喰っちまったという。鎌倉駅前にある行きつけの鰻屋のご主人までが、「あたしも買いました、先生、サインしてください」と、新刊の大著を差出してきたという。むろん上機嫌で署名したのだったろう。
 その逸話を講演で披露すると、鰻屋のご主人がかの大著を手にしたところでと、微笑ましいような滑稽なような、かすかに揶揄気味な笑いが会場から起きる。すかさず小林秀雄は被せる。
 「あのねぇ諸君、買った本は読まなきゃならんというキマリはありませんよ」
 会場大爆笑となった。一部の感度のよろしい聴衆は、鰻屋のご主人を揶揄する気持ちにほんの一瞬でもなった自分を恥じたのだったろう。
 その場面を眼にした私は、ちょっぴり皮肉で面白いと軽い気持ちで記憶したのだったが、なん十年も経った現在でも忘れずにいるとことを視ると、あんがい含蓄深い逸話だったのかもしれない。

 十分に理解できたとは云えぬまま読了だけした作品もあれば、途中挫折したきり続行できなかった作品もある。それぞれに想い出深い。が、外国文学の翻訳作品に、今後じっくり時間をかけて、腰を据えて読み耽る自信がもてない。このさい古書肆に出す。


 たとえばダンテの、ドストエフスキーの、マンスフィールドの、モラヴィアの、作品は今少し手許に置いておこう。それらを論じたもの、関連したものについては、もはや再読の余裕は訪れまい。
 外国文学に触れるには、私には学識がなかった。なんでも即座に教えを乞える学問的環境もなかった。しかたなく周辺書籍まで漁った時期があった。しかしそれで文学のなにが解ったでもない。つまりは自分が作品をどう読んだかの、主観に立ち戻るほかはなかった。権威にも定説にも、さほど魅力を感じなくなった。

 アウエルバッハ『ミメーシス』には学生時分の一時期、影響を受けた。しかしもう本質を考える時間もなかろう。現象だけで手一杯だ。老人の身辺とは、さようなもんだ。
 ガンジーの問題とは、詰まるところなんなのだろうと、興味を抱いた時期があった。ついに解らなかった。ヒッピームーブメントの時代にインドを体感して帰った連中の噺を聴いたり、書かれたものを読んだりすると、日本にこうして棲むかぎり解ろうはずもない思想かなとの気が起きてきて、敬したままにした。
 デズモンド・モリスはたしかイギリスの動物園の園長さんだったが、『人間動物園』は面白い本だった。現代の都市化の矛盾を称して「都会のジャングル」なんぞと云う人があるが、とんでもない、ジャングルに謝れとの言分に眼を醒まされる想いがした。ジャングルとは豊かにして奥深いもので、現代の都市化を云うなら「都会の砂漠」と云い直すべきだとの主張だった。内山田洋とクールファイブ「東京砂漠」よりずっと前のことで、この指摘には新鮮味があった。

 『堀口大學全集』補巻2 は迷う。シャルル・ルイ・フィリップの短篇の訳すべてが収録されてある。いわば決定版だ。しかしフィリップ短編集だけなら、世に廉価本も文庫本もある。その他の堀口訳業も収録された本巻を、私なんぞよりも有益に読めるおかたも多かろうから、私が所持していなければならぬ理由はない。
 外国文学読者としての自分の限界に鑑み、あれやこれやを古書肆に出す。

中山道を歩く

 

 巣鴨駅前を出発。商店街では「千鳥饅頭」も「千成もなか」も健在だが、買物はしない。帰れば冷蔵庫に茹小豆の缶詰がある。

 お婆ちゃんたちの竹下通り(旧中山道)への入口すぐ手前に江戸六地蔵尊として名高い真性寺。真言宗豊山派の寺院で、御府内八十八箇所巡礼の第三十三番札所である。ご本堂前では、巨きな笠を被ったお地蔵さまが座し、参詣人を出迎える。境内には、ここが札所であることを示す弘法さんの石碑と、芭蕉の句碑とが並ぶ。

 さて竹下通り。赤いパンツ専門店にも、ミセス用品専門店にも、入店しない。塩大福の店には、いつもながら行列ができている。
 母の車椅子を押して、ゆるりゆるりと観て廻ったことがあった。靴下だのズロースだの、片乳を切除した母でも着られるブラウスなどを、たしか買い込んだのだった。

 
 山号寺号よりも通称「とげぬき地蔵尊」として有名な髙岩寺。山門を入ると参道中央には巨大な鉄鉢が屋根付きで鎮座している。つねに多くの線香が供えられて、もうもうたる煙が立っている。参詣人の多くは、手を差出してわが身の弱点とする箇所に煙を招き寄せ、浴びてゆく。
 境内に土産物の露店も多い。開運キーホルダー(現在では携帯ストラップ)、長寿を授かる健康茶、手造り耳かき、祈願別各種お護り札に札袋その他だ。おみくじ売場もある。結びつける横木も渡されてある。
 境内の隅には水かけ観音像が立ち、備え付けの亀の子タワシで、石像を洗おうと待つひとが行列している。観音像の、わが身の弱点と同じ箇所を洗うことによって、痛みや苦しみを観音が肩代りして負ってくださるのだ。膝が痛い腰が痛い、頭痛が去らない眠れない、心臓が弱い胃腸が弱い、眼が見えなくなった耳が遠くなった……。タワシや手拭いを用意して待つ、参詣人の行列が途切れることはない。

 お地蔵さま近くの「ときわ食堂」は大繁盛していた。都電庚申塚停留所近くの姉妹店は、シャッターを降していた。

 
 線路を渡ると、信仰的観光の商業通りからとたんに地元住民生活通りとなる。かまわず進むと、延命地蔵尊が祀られてある。文政年間というから、江戸時代後半の爛熟期に創建されたらしい。狭い結界の内に五基の石柱および石像が立っている。
 中山道を往来する旅人たちは、このあたりでひと休みしたという。なかには加減を悪くして亡くなった者も死んだ馬も多く、この地の人びとによってねんごろに弔われたという。二体の石像は地蔵尊馬頭観音だ。
 道に面した最大の石柱には、奉納者がはっきりと彫りつけられてある。
 「越中下新川郡油町  小澤○○
  同         小澤○○ 
  江戸下谷茅町貮丁目 小澤○○
  同 池之端仲町   小澤○○
  神田明神下同朋町  千代田屋○○」
 北陸と江戸とを繁く往来することで財を成した、有志の分限者一族ででもあろうか。越中というから薬だろうか。それとも染や織の反物だろうか。林業もあった地だから、木工品や植物材料の雑貨だろうか。米や酒は、藩外へ容易に持出せたはずはなかろう。
 いずれにもせよ、苗字を許された富裕の篤志家が、中山道の恩に感謝し、斃れた人と馬とを弔ったのだ。

 今では三階四階建ての中層マンションに囲まれ、埋れたように残る、こういう信仰施設が、私は好きだ。
 すぐ近所には、これもめっきり少なくなってしまった街の古書店が、今も健在だ。残念ながら、まだ開店前だった。
   

  
 今風に申せば、巣鴨地蔵通りとなるが、もともとの地名は庚申塚である。都電荒川線の庚申塚停留所まで戻れば、すぐ眼と鼻の先に、由来となった小さなお社がある。これまた街道の路傍なればこその信仰の跡だ。興味なき通行人には視過ごされてしまいそうな、控えめなお社である。
 久しぶりにここまで来たのだ。チンチン電車に乗って帰ることにした。


 で、わが町へと戻り、いつもの店の、いつものカウンターの、いつもの席で、いつもの生ビールといつもの肴というわけだ。

入梅まえに

 

 眼醒めた時刻に空が晴れていたら、とにもかくにも草むしりである。放置したまま梅雨入りしてしまおうものなら、手が着けられぬことになる。ここでひと叩きしておくことで、盛夏作業が楽になる。経験だ。

 頑張りは禁物。ひと坪作業にして、三十分作業が原則だ。継続のみが力となる。これも経験だ。
 第一日目。玄関番のネズミモチの剪定。老桜樹が世を去った今、敷地内の樹木といえば、往来に面した花梨がひと株と、この玄関番しかない。目立たぬ存在だった低灌木マンリョウも、じつは桜騒ぎのなかで世を去った。ブロック塀をとり壊す作業に支障があるからと、引抜いたのだ。
 赤サビにまみれた古い剪定鋏一丁の出番だ。使用するたびに、剪定鋏が一丁欲しいもんだとの想いが頭をよぎる。が、生きてるあいだにあとなん回使用するものかと、おおまかに計算する。しょせん私には贅沢品だと、毎度思い直す。

 玄関番のくせに、当主の私より丈が高いのはいただけない。だいいちご来訪者を視おろすなど、もってのほかである。雷門の仁王様でもあるまいし。まず丈を詰める。刈込み鋏があれば、ジャキジャキとあっという間の作業だろうが、そんな専門家を物真似するような道具は持合せない。剪定鋏でひと枝づつ詰めてゆく。
 丈を詰めたら、脇へ伸び出した徒長枝を払う。細かい粒状の花(だろうか実だろうか)が盛んに着いている時期だ。やがて鳥たちの餌となって、子孫を他の地へと拡散してゆくつもりだろうが、当方にも事情があるから、同情してもいられない。
 縦横の膨張を抑えたら、樹形内の込み入った枝を透く。樹形内の風通しを好くしてやるのだ。虫は徒長枝の若葉に穴を空けるが、白黴状のうどん粉病は通気性の悪い樹形内の込み入った葉に発生する。

 根かた周辺には、伐り落した枝葉が散乱するが、大雑把に寄せ集めて枯枝山へと運ぶだけで、単体の葉にいたるまでを丹念に拾ったりはしない。周囲の草むしりの機会へと譲ってしまう。

 
 というわけで第二日目。ネズミモチ根かた周辺のひと坪。
 広域愚連隊たるドクダミやシダも多少はいるが、まめに手が入る場所なので、勢力はさほどでもない。一番の特色はムラサキゴテンである。ここが本籍地で、各方面へと拡散していった。今は上品な三角形の花を着けている。花も葉も茎も高貴な紫色だから、鉢上げして管理してやれば得がたい園芸植物なのだろうが、私にその気がない。
 あとは三つ葉類のか弱い草だから、むしるに雑作もない。あれほど生命力を謳歌した彼岸花もすっかり葉が枯れて地表に貼り着いたようになっているから、千切って取除いてやる。存外しぶといものとしては、咲き了えたタンポポ類の葉が地表にへばり着いたように残り、軍手の指先で探ってみると根も健在だ。時には鎌が必要になる。
 前日のネズミモチ剪定のくず枝葉をも拾って、ひと坪のみの作業とした。

 
 第三日目。建屋北側の残り。
 区立児童公園との境界をなす建屋北側通路を、およそ三区分して西からむしってきたのだった。西詰めすなわち敷地北西角は、西辺から領域を拡げてきたフキの新開地だった。中ほどは通常のドクダミ・シダ連合軍かと高を括っていたら、かつて撲滅したと思い上っていたオニアザミの小株がいくつもあって、やや血相を変えた。こいつに成長されたら一大事だ。まことに手間がかかる。
 さて今朝はそれより東のひと坪である。眼を凝らしてみても、オニアザミの侵出はないようで、ひとまず安堵する。そうなれば闘い慣れたるドクダミ・シダ軍である。
 ただしこの地域には、都市ガスの検針メーターだの、階上へ水を揚げる上水道モーターだのといった設備があって、周囲にガラクタもあり、複雑な物陰が生じている。腕を伸ばしても届かぬ場所があって、ドクダミ・シダの殲滅・掃討を期しがたい。果せるかな、お前それでもドクダミかと云いたくなるような、巨大お化けドクダミやシダの姿も混じる。例により粗雑目こぼし作業にて切上げるほかはない。

 梅雨到来後は、汗みずくのスタミナ消耗戦に突入する。その前の、のどかな作業である。

知らぬが仏

 
 NASA/GSFC/SDO

 太陽の表面で、観察史上最大の爆発(フレア flare)があったという。太陽エネルギーの活動は十一年周期で消長してきていて、来年が次の頂点だそうだ。
 爆発から約八分後には放射線X線など)が地球に到達し、三十分から二日後には高エネルギー粒子(強力電荷を帯びた中性子など)が到達するとのことだ。地球の磁場(磁気バリア)への影響が懸念されているという。
 GPS 機能の変調も起きているそうだから、世界の重要案件に携わるかたがたにとっては深刻問題なのだろう。だが無知かつ無責任な輩の一人として、私はこの手のニュースが嫌いではない。

 『ミクロの決死圏』(1966年)というアメリカの SF 映画が好きだった。亡命させた東側要人が工作員のテロにより、脳内出血の瀕死状態となる。もはや脳の内側から治療するほかに手立てがない。ここにあらゆる物体を極小化する装置があって、潜航艇(カプセル)に乗組んだ医者や科学者ごと極小化して、注射器で患者の体内へと送り込み、血管を通って脳の障害箇所をレーザー治療して帰還する作戦が採られる。ただし極小化効果は一時間しか持続できない。その間に治療して戻らねばならない。
 なんともはや、夢見がち(ファンタジック)な噺だった。

 東西冷戦構造時代だの、医療技術や科学技術の現状だのには、べつだん興味はなかった。人体組織と生理とを、いかに視覚化したかの点で、眼を瞠らされたのだった。原子炉搭載の潜航艇が発するかすかな信号を手術室のアンテナで受信して、道順(血管方向)を支持する。しかし内と外とでは、サイズ感も質感もまったく異なる。
 リンパ液とは、また赤血球とはかように不気味感触・形状のものか。リンパ節とはなんとしぶとく進路妨害するものか。心臓に近づくと、強烈な血流と爆音(拍動音)で進行できない。外部(手術室)操作によって一瞬の心停止を起した隙に、ようやく難関を通過する。
 静寂を徹底させていたはずの手術室で、看護師のウッカリから鋏が床に落ちた。これが患者の内耳を伝わり天地鳴動の大音響となって、潜航艇を襲う。操縦均衡を失った潜航艇は血管壁を傷付けてしまう。即刻修復すべく、あっという間に集ってきた血小板からの攻撃を受ける。またホルモン作用によって異物を感知した白血球による、抑え込み襲撃にも遭ってしまう。
 おおいなる犠牲も払いながら、いくつもの難関をからくも乗越えて、出血箇所をレーザー銃で焼き切って脳血管を復活させ、命からがら眼球へと到達し、涙に溺れるところを救出されたのは、制限時間わずか八秒前だった。

 空想です架空現実ですといかに断られたところで、冷静に考えれば他愛もない噺だ。科学技術の一側面に注目して野放図に伸長させ、他の面の条件・限界を無視しきった乱暴な物語に過ぎない。また六十年近く経った現在から観ると、東西冷戦構造下にあっての科学者たちの必死の攻防という物語の建てつけ自体が、歴史を感じさせる。
 にもかかわらず今なお記憶しているということは、造形と色彩において、傑出した美意識による提案がなされて、しかも観客を惹きつける力があったということなのだろう。


 朝日新聞DIGITAL
 太陽フレアに関するニュースは、じつは人類の行く末に関わる話題なのかもしれない。それどころか地球のありように関わっているのかもしれない。
 けれども、北極圏の専有だったオーロラが世界各地で観測されました、わが北海道でもこれこのとおり、と映像つきで報道されると、私ごとき無知の輩は「あな美し」と感嘆してしまう。
 だいいち、今回の爆発で放散された太陽エネルギーを地球規模に換算すると(いかなる計算式かも思い浮べられぬが)、全人類が地球上で日々消費しているエネルギーの数十万年分とのことだから、深刻さを想像しようにも手がかりがまったくない。「美しい」くらいしか言葉を思いつけない。
 美こそ亡国の基、と喝破したのは、いずこの宗教者であったか。そんなこと云ったって、「知らぬが仏」という悟達をも物笑いをも示す言葉だって、日本語にはある。